蘇我氏の正体⑥ 乙巳の変は起こっていなかった(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑥ 乙巳の変は起こっていなかった

藤原鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を誅殺したとされる乙巳の変。この政変が実はまったくの虚構であり、日本書紀の作者が創作した架空の物語だったとしたら・・・。

以前、乙巳の変についての投稿をしたとき、大須賀あきら様から興味深いコメントをいただきました。それは、「乙巳の変は同時期に新羅で起こった“ピダムの乱”に酷似している。

乱の起こり方や顛末、細かな会話のやり取りまでがそっくり」という指摘でした。

つまり、乙巳の変は、新羅で起こった反乱を、日本で起こったことのように、場所と人物をすり替えて挿入された作り話だったという疑いが生じたのです。

古事記と日本書紀は、さまざまな古文書や伝承話をまとめてひとつの物語としたもので、一つの国の歴史が定点的に観測されて書かれたものではありません。そのため、「これは日本で起きたことではないのではないか?」と思われる物語も記述されています。

では、ピダムの乱とはどういうものだったのかと言いますと、

毗曇(ピダム)。新羅、善徳女王の治世時に貴族会議の首長・大上等となった人物。647年に反乱を起こし、将軍・金庾信らに鎮圧され処刑される。反乱の理由は「女帝では天下を治世できない」というものだったらしい(ウイキペディア等より)。

大須賀氏によりますと、このピダムを蘇我入鹿、金庾信を藤原鎌足、金春秋(のちの武烈王として善徳女王の二代後の新羅王となる)を中大兄皇子に置き換えると、乙巳の変のストーリーが出来上がります。日本書紀の記述と、ピダムの乱が描かれた「三国史記」金庾信伝では物語の進行や途中の会話の内容までがそっくりで、どちらかがどちらかをペーストして書かれたものであることは疑いないようです。

ちなみにこの時代のヤマトと新羅の政情は似ているところが多く、593年に日本初の女性天皇である推古天皇が即位すると、それに続くように632年、朝鮮半島では初となる女帝・善徳女王が王位に就いています。また、ほぼ同じ時期に新羅と日本に四天王寺が建立されており、さらにその頃の蘇我氏の系譜の中に「蘇我善徳」という人物がいるなど、この時代の蘇我氏は日本と新羅の両方の政局に関わっていたのではないか?という疑念も沸いてきます。

歴史を調べておりますと、ときおりこのような感じで「歴史は繰り返す」という言葉のように、同じパターンの事象が重なって見えることがあり、この場合には日本と新羅の歴史が同時期に重なって進行しているようなところが感じられます。

この大須賀氏の説に加えて、「乙巳の変は存在しなかった」と主張する人がいます。
それは斉木雲州氏です。

斉木雲州氏は、著書「上宮太子と法隆寺(大元出版)」の中で、こう書いています。

「日本書紀には“ソガ入鹿殺し”という架空の事件が書かれている。このような事件は、必要なかった。なぜなら、エミシのモデルとされた石川臣雄正はすでに641年に他界していた。乙巳年のいわゆる“イルカ斬り事件”は全くの虚説であった。(中略)イルカの死の話は、鎌足の手柄を示すために創作された話だ、と伝承されている。(中略)権力者に都合の悪いことを“エミシ”や「馬子」の仕業とすることに利用されたらしい。

斉木氏は同著で蘇我馬子や蝦夷、入鹿といった人物の実在も否定しており、そもそも時の朝廷を牛耳ってわがもののように専制を敷いた蘇我氏などいなかったと主張しています。

中学や高校の日本史の授業で必須の暗記項目として乙巳の変や大化の改新を勉強してきた私たちには、にわかには信じがたい内容ですが、どうやらこちらが真実のようなのです。

そして、仮に「乙巳の変はなかった」と仮定して、「ならば記紀はどういう理由でそれほどまでに架空の歴史を創作して書かなければならなかったのか?」ということを考えてみましょう。

繰り返しになりますが、記紀の編纂時の責任者は藤原不比等。
乙巳の変でヒーローとして描かれている藤原鎌足の息子です。
息子が親のことを悪く書くはずがありません。しかし、大須賀説・斉木説が真実なら、鎌足こそが謀反人であり、クーデターによって政権を奪取した極悪人ということになります。

この事実を隠すためには、蘇我氏という架空の大悪人を作り、鎌足の罪をすべて隠し、正義の行いとして偽装する必要がありました。

この時代、蘇我氏という氏族は実在していましたが、斉木氏によりますとそれは北陸に勢力を張った地方豪族であり、ヤマト王権内で代々大臣になった蘇我家とは別の家で、それは石川家という名前だったそうです。

記紀では、この石川家の大臣たちを蘇我姓に変え、名前も異民族を思わせる蔑称にして悪人のイメージを植え付けたり、同時に怨霊封じの秘儀として、神に供物として捧げる動物の名前を付けたりして、騙し打ちにあった石川家の大臣たちが祟ることを封じました。
まことに手の込んだ、入念な悪行と言わざるを得ません。

なお、斉木氏の説では蘇我氏の本当の姓は石川氏ですが、大須賀氏の説によりますと蘇我馬子は「阿毎字多利思北孤」というのが本名だということです。

どちらの名前が本当の名前なのかということを検証するのは困難ですが、それぞれ別な情報源から「蘇我氏歴代当主の名前は本名ではない」という指摘がなされているところが重要です。

そして、本名ではないどころか、蘇我馬子、蝦夷、入鹿はすべて架空の存在だった・・・。
このあたりの記述は古事記にはほとんどなく、日本書紀にのみ記述されているのですが、少し穿った考え方をしますと、古事記が書かれた後に、わざわざもうひとつの歴史書として日本書紀が編纂された最大の理由は、この蘇我氏に関する歴史の捏造工作を徹底的に行い、それによって藤原鎌足の悪行を隠蔽するためではなかったか、と思えてきます。

そして、この大掛かりな捏造工作はこれだけに留まりませんでした。乙巳の変、蘇我氏三代という虚構に加え、日本書紀はさらに「聖徳太子」という虚像をも作り出したのです。

次回はこの「聖徳太子という虚像」についてご説明いたします。

(写真は中大兄皇子と鎌足の出会いの場とされる蹴鞠の図。「ピダムの乱」と「乙巳の変」はこのような情景描写までそっくりに描かれています。)

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