真説仏教伝来⑭ 金首露王 その3 金首露王は高木神か?(佐藤達矢稿)

佐藤達矢稿

真説仏教伝来⑭ 金首露王 その3 金首露王は高木神か?
井伊章さんというお方がその著書「大倭国通史」の中で、金首露王を、記紀に出てくる「高木神」に比定しています。
高木神という神様は、古事記では高御産巣日神、日本書紀では高皇産霊尊とも書かれますが、大伽耶国のあった南朝鮮中央部には現在でも「高霊」という名前の都市があり、書紀の記述はこの土地の神であることを匂わせているような気配もあります。
通常、高木神は「造化三神」の一柱とされ、人格を持たない宇宙神であるとされているのですが、井伊氏の仮説では実在の人物、ということになります。
とりあえず、まずは井伊氏の仮説通りに、高木神が宇宙神ではなくて実在した人物だと仮定して考えて行きます。
記紀の系図では、高木神の娘・萬幡豊秋津師比売命と天照大御神の息子・天忍穂耳命が結婚して産んだ子供が天孫ニニギ(瓊瓊杵)です。
井伊氏の仮説通りだとすると、金首露王は天孫ニニギの祖父にあたり、天孫族の始祖と言える人物であることになります。これはたいへんなことで、これが真実なら、首露王は現在の韓国・北朝鮮の人口の3割を占めるという金姓の人々の始祖であるばかりか、日本の初代天皇である神武天皇の祖先でもあるということになるのです。
もっとも、これはあくまでも仮説にすぎず、日本の様々な古志古伝には高木神からニニギに至るまで、数種類の違った系図が残されていますし、日本書紀の中だけでも「一書に曰く」という別説が書かれていますので、その中のどれが真実と断定することは困難です。
しかしながら、「高木神はニニギの祖父」と考えたほうが理解しやすい歴史上の出来事や状況証拠のようなものが多々存在することも事実で、私にはこれが真実のように感じられます。
以下、その根拠を列挙してみます。
① 天孫ニニギが降臨したと思われる場所は福岡県の糸島市だと思われるが、そこは朝鮮半島から近く、ニニギが金官伽耶国を出発して糸島に着いたとすると地理的に整合する。糸島には大伽耶国と同名の「可也山」という山があり、ニニギが降臨したとされる「くしふるの峰」もある。「くしふる峰」が「亀旨峰(グジボル)」の転訛であることは明白で、ニニギは日本に来て最初に、祖父である首露王の霊を祀ったのであろうと考えられる。
② 「萬幡豊秋津師比売命」という人名には、大分県の古名である「豊の国」の、「豊」という字が入っている。同時に宇佐八幡宮の「幡」という文字も入っている。さらに「秋津」という文字は日本国を指す呼称であることから、この女性は日本の大分県地方と縁の深い女性であったことが推察される。また、大分県には「祖母山」という名前の山があり、この名前が「祖母を祀った山」という意味だとすると、ニニギは大分県で自身の祖母である許黄玉を祀ったのであろうと推測される。ニニギが王宮を構えたという高千穂は祖母山の南麓に位置しており、ニニギは高千穂に住んでいたので、毎日祖母山を見上げながら生活していたはずである。
③ 糸島市にはニニギを祀る「雷神社」があり、その神社がある雷山には千如寺という寺がある。この千如寺の開祖は清賀上人というインド人であり、インドの血を引く許黄玉(金首露王の王妃)の血縁者と考えれば彼がなぜ糸島にやってきたのかという理由もわかる。清賀上人は先祖が仏教を伝えた地の再興のために来たと思われるのである。
④ 記紀の系図ではニニギの孫がウガヤフキアエズとなっているが、ウガヤフキアエズの国は現在の大分県であった。ニニギの王城があった高千穂は山深く生活に不便な場所であったため、ウガヤフキアエズの時代に大分まで出てきたのであろうと思われる。
⑤ 糸島市にある平原遺跡の被葬者は天照大御神であるという説(原田大六氏)があるが、この古墳の埋葬様式は大伽耶国の様式を踏襲しており、臣下の倍葬墓が個人別に環状に並んでいるという特徴を持つ。つまり平原遺跡の被葬者は大伽耶国から来た人である。
⑥ その平原遺跡の出土物等から、被葬者は女性であることはほぼはっきりしている。また、国内最大級の鏡など、当時の最高権力者であったことを物語る宝物が出土しており、原田氏の説にはかなりな説得力がある。そして仮に天照大神が実在の人物で、大伽耶国の王女だったとすると、記紀に描かれた高天原は大伽耶国だったということになり、首露王は高木神であったとする説、および記紀の記述とすべて符合する。
なお、祖母山に祀られている女神の名は「豊玉姫」と呼ばれており、井伊氏はこの人を許黄玉に比定していますが、これは間違いで、私は許黄玉の娘ではないかと考えています。金官伽耶国の王妃だった許黄玉が日本に来ることは考えにくく、もしこの人が日本で亡くなっていたらアマテラス以上の尊厳をもって埋葬されたはずだからです。
首露王の一族が女系相続の習慣を持っていたとすると、彼らが国王の娘を日本の有力なクニの王妃として送り出すことは、その国を支配するも同然の意味がありました。
一方、伽耶国から王妃を迎える日本のクニグニ(伊都国やウガヤフキアエズ国)はもともと男系相続社会だったので、彼らには「国を乗っ取られる」という意識はありませんでした。
つまり、伽耶国から日本のクニグニへ王妃が嫁いでゆくという婚姻は、双方の国にとってウインウインの関係だったのです。
おそらくは、宗像大社に祀られている宗像三女神も、宇佐神宮に祀られている比売大君も、同様の理由で伽耶国から日本へと嫁いできた姫様たちだったであろうと私は考えています。
もっとも、伽耶国は次第に勢力がなくなり、最後は新羅に滅ぼされていますので、新羅がこの風習を受け継ぎ、応神天皇の頃まで時代が下がると新羅から来た姫様もかなりいたと思われます。
この、伽耶国や新羅国、百済国などの「半島の国から王の娘を国王の息子の嫁としてもらい受ける」という風習は古代日本にずっと長く存続していました。
たとえば、神功皇后は新羅国の王女の娘ですし、蘇我氏の代々の当主の嫁は新羅や百済系の女性たちでした。この習慣は少なくとも第50代・桓武天皇の頃まで続いており、半島と日本の縁というものが現在とは比較にならないくらい深いものだったことがわかります。
そして、金首露王のルーツを考えるとき、実はもうひとつの民族の名前が浮上します。
それはあの名剣「布都御魂」の渡来経路を調べたときに浮上してくるものです。
次回、そのころの朝鮮半島の情勢から、このことを分析して行きます。

(写真は「鉄の王キムスロ」に許黄玉役で出演した女優ソ・ジヘ)。

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