真説仏教伝来⑦ 長遊禅師は日本に来ていた?!(佐藤達矢稿)

佐藤達矢稿

真説仏教伝来⑦ 長遊禅師は日本に来ていた?!

 前回、金官伽耶国の初代王妃・許黄玉には兄がいて、名前を長遊禅師と言い、その人こそ日本に初めて仏教を広めた人である可能性が高い、という話をしました。

 しかしながら長遊禅師が日本に来たということを記録している古文書はなく、伝承も残されていません。

 ただ、おそらくは来ていたのだろう、来ていたに違いない、と思われる物証はわずかに残っています。 かすかな足跡ですが、この足跡を注意深く追って行きましょう。

 福岡県糸島市の雷山という山に、千如寺という寺があります。

この千如寺の始祖・清賀上人という人はインド、もしくは西域から来た高僧であり、「雷山千如寺縁起」によれば、水火雷電神(ニニギ)や神功皇后ゆかりの古跡であった雷山に精舎を建立し、本尊の千手観音を安置したとされています。

 清賀上人渡来の時期は資料によってばらつきがありますが、「雷山千如寺法系霊簿」によりますと「人王十三代成務天王四十八年来朝」とあります。

 長遊禅師は神武天皇より前の時代の人ですから、清賀上人とは十五代分くらいの時代差があります。しかし、記紀の天孫系図は多分に作為的であり、私は神武~成務間には数代の世代差しかなかったのではないかと考えています。

 清賀上人が突然インドからなんの前触れもなくやってきて寺を建てるとは思えません。清賀上人がこの地に来たのは、しかるべき理由があってのことに相違なく、そのしかるべき理由とは、「長遊禅師が開山した聖地として祀られていた雷山を、その子孫にあたる清賀上人が引き継いで仏教を復興させること」だったのではないかと私は考えます。

 長遊禅師は仏教伝播のためにインドから金官伽耶国まではるばるやってきた人です。
いわば戦国時代のフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスのような存在で、こういう人が一か所にじっとしているはずもなく、できる限り広範囲を飛び回り、できるだけ多くの地域に仏教を広めようと精力的に活動したはずです。

 当時、金官伽耶国は九州と朝鮮半島を結ぶ交易の中心地で、倭国からの船は頻繁に港に出入りしておりました。長遊禅師があるときこの交易船に乗って糸島までやってきていたとしても不思議はありません。

 そして、もうひとつ、長遊禅師と糸島を結びつける足跡があります。それは、同じ雷山にある「雷神社」です。
 
 この神社の主祭神は「水火雷電神」、別名を瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。

 前回の仮説の通り、長遊禅師の妹婿の首露王が高木神(高皇産霊尊)であるなら、記紀の系譜通りに辿ればニニギは長遊禅師の妹の孫、ということになります。つまりニニギは長遊禅師の直系の子孫なのです。

 ニニギの名前を「水火雷電神」としてあるのも不思議で、おそらくはこの神社のみで使われている名前です。
 私の推定では糸島市こそ天孫ニニギ降臨の地であり、全国に数あるニニギを祀る神社の中でも最も早く建立されたのがこの雷神社だったと思われます。 
 この神社が建立された頃までニニギは「水火雷電神」という名前で呼ばれていたものと思われます。

これは中国の五行思想に基づく名前であり、同時に稲作の神、水の恵みの神という意味も持っていました。(雷のことを稲妻とも言うのは、古代人が雷を天神が大地に射精する現象ととらえ、雷が落ちることによって大地が受精し稲穂が実る、と考えたことによります)。

 以上のことから、私なりにこのときの仏教伝来の流れを推定してみます。

「・・・南朝鮮に金官伽耶国が成立した時、初代首露王の妃としてインド・サータバーファナ王国から許黄玉が渡来してきた。許黄玉の一行の中には彼女の兄・長遊禅師がいて、この僧は世俗の栄華には関心がなく、もっぱら仏教を伝播して歩くのが彼の目的だった。

 長遊禅師は金官伽耶国周辺にいくつかの寺を建立し、金首露王と許黄玉の間にできた子供のうち七人までを出家させ、仏教僧として育て上げた。

 七人の子供たちは長遊禅師のもとで仏教僧として大成し、禅師の号令の下、半島のみならず日本列島へも仏教伝播の旅を行った。この布教の旅の中で禅師と子供たちが訪れた場所のひとつが今の福岡県糸島市である。

 山岳修行をしていた禅師たちは糸島の雷山に籠って修行を重ねた。
 後日、この山は禅師ゆかりの聖地となり、禅師の血を引く天孫族ニニギは日本に渡来した際、真っ先にこの山に登って祖先である禅師に祈りを捧げ、祭祀を行った(つまり、先祖の墓参りをした)。これが雷山にある雷神社の起こりである。

 後年、成務天皇の時代になって、同じインド、サータバーファナ王国から許黄玉・長遊禅師の後裔である清賀上人が渡来、雷山に千如寺を建立して先祖の衣鉢を継ぎ、仏教を復興させた。これが現代まで続く雷山千如寺の起こりである。」

 以上、あくまで私の推測ながら、いくつかその傍証として提示できるものがあります。以下に列記しますと、

① 金官伽耶国の遺跡からは、数珠のような宝飾品や線香立てに使われたと思われる鉢など、仏教用具らしきものがいくつも発掘されている。

② 従来まで、伽耶国には仏教は渡来しなかったとされていた。その理由は「仏像が発見されないから」というものだが、初期仏教はお釈迦様の教えに忠実で偶像崇拝を行わなかったため、お釈迦様の像は作られなかっただけのことである。仏像が作られるのはAD3世紀ごろからで、お釈迦様の本来の教えが忘れ去られてからのことである。

③ 金官伽耶国の許黄玉陵のそばには、彼女がインドから持ってきたと言われる黄色い石でできたストゥーパ(石塔)が今も安置されている。彼女の名前にある「黄玉」という文字。そして長遊禅師の別名は「宝玉仙人」。さらにその子孫と思われるニニギの名前・瓊瓊杵とは、宝玉を意味する言葉である。

④ 金首露王と許黄玉王妃の間に生まれた子供の中に「豊玉」という名前の皇子がいる。
  この「豊玉」の娘が記紀に出てくる「豊玉姫」であったなら、豊玉姫もまた金官伽耶国から日本、今の大分県、当時のウガヤフキアエズ王朝に嫁いできた、釈迦族の流れを汲む皇女であったこと可能性がある。大分県に今も祖母山という山があるのは、ニニギ、あるいは神武天皇から見て祖母にあたる豊玉姫が埋葬されて眠っているから・・・。

(写真は千如寺大悲王院)。

コメント

タイトルとURLをコピーしました