月の民の足跡⑩ ワダツミの道   半島と豊後をつなぐ草綿交易航路。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

月の民の足跡⑩ ワダツミの道   半島と豊後をつなぐ草綿交易航路。

 大分川の支流、寒田川という川のほとりに、豊後の国一之宮・西寒田神社があります。
この神社の主祭神は月読命。全国でも数少ない、ツクヨミをお祀りする神社です。

私はこの西寒田神社と、壱岐にある月読神社が対の神社であるような気がしてなりません。どちらも月読命を祀る神社なのですが、この二つの神社の間には、古代の重要な交易路が存在したようなのです。

 西寒田神社の周辺には宗方、津守、住吉といった、古代の海運を支配していた海人族の名前の付いた土地が点在しています。彼らの名前がついた土地は北九州から本州まで広く分布していますので、当時の西日本の交易は彼らが行っていたことでしょう。

 大分川の源流は湯布院の金鱗湖という湖で、この湖のほとりに宇奈岐日女神社という神社があります。この神社の創建は非常に古いようで、幹回りが10メートルにも達する巨木がごろごろしています。御祭神も国常立命や国狭槌命といった最古級の神様が並び、それらの神々に加えて彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)や神倭磐余彦尊(神武天皇)が祀られています。
御祭神から見ても日本最古級の神社なのですが、ここはまた、日本先住民族のひとつであるウガヤフキアエズ王朝の主要都市でもあったようなのです。

 この宇奈岐日女神社のある湯布院から豊後大野市にかけての一帯は、古代、草綿という綿の産地でした。木綿とも書き、この字をユウと読んでいたのがユフと転訛し、現在の由布市、湯布院という地名の由来となったようです。

 金鱗湖に船を浮かべて下り、30キロ余り東に行くと、河口近くに小野鶴という土地があり、小さな八幡社が建っています。そこは古代の交易の中継地点だったらしく、猿田彦や少彦名命の石碑が残っています。おそらくそこで草綿は大きな船に積み替えられ、北九州経由で壱岐に渡り、壱岐神社付近で半島から来た交易船に譲渡されたものと思われます。草綿は防寒具の材料となりますので、北方の寒冷な土地に住む人々にとっては貴重な品物でした。

 八幡社の近くに田原神社という小さな神社があります。おそらくは俵神社の転訛であり、現在の八幡社も古代には俵神社と呼ばれていたのではないかと私は考えています。
 船に積んだ俵の集まる場所。交易の中継点が安全に守られるよう、古代人が神様に祈ったのが俵神社の起源でしょう。

 そこから30キロほど南に下り、豊後大野市朝地町綿田という土地に俵積神社があります。御祭神は宇奈岐比売、宇奈岐比古という夫婦で、奥方の方が湯布院の宇奈岐日女神社と同音の人物であることから、この夫婦は古代、このあたり一帯の草綿栽培と貿易を取り仕切っていた行政長官だったと思われます。

 この神社からは神代文字で書かれた古文書が発見され、そこが天孫降臨以前の日本先住民によって統治されていた土地であることが推察されます。そして、この俵積神社と西寒田神社、小野鶴の八幡神社を結ぶ三角形の地帯こそ、古代ウガヤフキアエズ王朝の存在した場所だと思われるのです。

 この古代史研究会の主宰者である藤島寛高さんの研究によりますと、西寒田神社の上流5キロほどの地点にある霊山という山が歴代ウガヤ王の陵墓の集まる「王家の谷」であり、ウガヤフキアエズノミコトや神武天皇はその近くで暮らしていたようです。

 西寒田神社と小野鶴の八幡社を結ぶ直線上に宗方台地という小高い丘があり、そのあたりに古代海人族の宗像氏が起居し、西寒田神社と八幡社を船着き場として管理していたと思われます。 宗像氏は草綿を積んだ船を運航して国東半島を廻り、福岡の志賀島を経由して壱岐に向かったことでしょう。志賀島にある志賀海神社の御祭神は「綿津見神」。文字通り、このワダツミという言葉は草綿を積んだ交易船のことを指していたと思われます。

 このワダツミという言葉は海を意味する古語ともなっていますので、古代の草綿貿易は極めて盛んに行われ、重要な貿易品目であったことでしょう。

 そして、この交易ラインを結ぶ壱岐の月読神社と西寒田神社の御祭神が同じ月読命であるということは、ウガヤフキアエズ王朝は月読族となにかしらの関係があったのではないかと推察されます。

 月読族のルーツはおそらく、中央アジアにあった「月氏国」。

月氏国は始皇帝の時代に秦や匈奴と並び立っていた民族で、現在の中国・敦煌あたりにいたのですが、漢の孝文帝(在位BC180~BC157)の時代に戦いに敗れて敗走、現在のキルギスあたりに逃げたものが大月氏となり、中国青海省に逃げたものが小月氏となりました。小月氏はのちに羌族と呼ばれますが、この羌族、写真で見る限り日本人そっくりです。

 大月氏はその後、インドに侵攻してクシャーナ朝を起こします。この国は中国ではずっと大月氏国と呼ばれていたようで、三国時代に大月氏王ヴァースデーヴァは邪馬台国の卑弥呼と並んで金印を授けられています。この金印というのは中国国内の諸侯がもらっていた印綬よりも格式が高く、いわば同盟国の扱いを受けている証とも言えるものです。
 当時、三国に分裂して強大な政権のなかった中国にあって、魏王は倭国と大月氏国を同盟国として懐柔しておく必要があったのでしょう。

 こうした時代に至るまでに、中国の戦乱を避けた月氏一族の一部は日本にやってきて、ウガヤ国と交易を開始したと思われます。月の文字のある地名は朝鮮半島にもいくつかあり、特に新羅の首都・慶州の王城の名前は「月城」でした。
ここには世界最古とも言われる天文台が残っており、ここで月読族が航海のために星の配置を読み、交易船の安全な運航を支えていたことが偲ばれます。

 月読命は記紀において、アマテラス、スサノオと並ぶ三貴神という重要なポジションに置かれながらあまり活躍が描かれておらず影が薄い存在ですが、おそらくそれは月氏族が婚姻を結んだウガヤフキアエズ王朝が、後から来た民族に滅ぼされたからでしょう。
 
 もしかしたらウガヤフキアエズ王朝とは、ウ伽耶葺き合えず王朝であり、伽耶国にいた月読族が大分の地に逃れて自分たちの別天地を造ろうと企図したものの、その夢が果たせずに終わってしまったという意味でつけられた名前ではないだろうか?と私は考えています。

 ウナキヒメ、ウナキヒコという「U」で始まる名前、宇佐、宇曽嶽(大分市にある山)という「U」で始まる地名、そして交易船の中継地だった宇佐の地にはウサツヒメ、ウサツヒコという夫婦がいたことが記紀に記されています。まるでウナキヒメ夫婦の親族のような名前で・・・。

この「U」の頭文字、ウガヤフキアエズ王朝にも当てはまります。「U」こそは、月読族を示す聖音なのではないでしょうか?・・・。

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