月の民の足跡⑨ 蘇我氏の正体(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

月の民の足跡⑨ 蘇我氏の正体


前回、骨品制という制度を日本に持ち込み、仏教を日本で興隆させたのは蘇我氏ではないかという話をしました。
蘇我氏が日本に仏教を持ち込み、興隆させたことは疑いありません。この当時、日本の政治を牛耳っていた蘇我氏は半島から多くの仏教施設や仏像、仏典等を持ち込み、多くの寺院を建立し、日本中に広く伝播しました。
ところで、この蘇我氏の系譜の中には「蘇我韓子」「蘇我高麗」などという、朝鮮半島を示唆する名前が見られ、この一族が大陸との関係が深かったことが察せられます。
私見ですが、蘇我氏の名前の構造は、「蘇我」という姓が男系のルーツを示し、名前の方は女系のルーツを示しているのではないかと私は考えます。
たとえば、「蘇我高麗」という名前は父方が蘇我氏、母方は高麗(高句麗)人であったことを示しているのではないかと思えるわけです。
これは前回まで説明いたしました国際政略結婚の多さ、そして母系相続制度「大元制」を持つ民族の血がこの時代の日本の豪族の中に入ってきている、ということにも関連します。
この当時、ヤマト王権の中で勢力を伸ばして行くためには朝鮮半島の国との強力なバックアップ関係が必要でした。日本と半島の間での貿易圏を握ることが経済力の基盤となり、ヤマト王権の中での地位向上につながるからです。
蘇我氏はその代々の家長の妻を半島から娶ることにより、血縁による強力な半島コネクションを作り上げたと思われるのです。
また、蘇我氏は氏族としてのルーツを「武内宿禰」とした系図を残しておりますが、私は、これは怪しいと考えています。
武内宿禰は神功皇后の功臣であり、応神天皇はその落胤という説もあるくらい、ヤマト王権の歴史の中では重きを置かれる存在です。そのため様々な氏族の祖先として系図に載せられていますが、これは、中世の戦国大名のほとんどのルーツが源頼朝にあるとして作られた系図と同じく、一族の由緒を正しく見せかけるための改ざんだと私は考えます。
では、蘇我氏のルーツはどこにあるのかと言いますと、それはあの「釈迦族」だったのではないかと私は考えています。
そして、スサノオとのゆかりで語られる「蘇民将来」という人物こそ釈迦族の末裔で、蘇我氏の祖先となった人物なのではないかと思えるのです。
これらについてはいくつか論拠があります。
①まず、蘇我氏の家系が代々半島から妻を娶るという、「女系相続」の形態を継承している可能性があること。
女系相続はインド、ドラヴィダ族の慣習であり、ドラヴィダ族はお釈迦様の在世当時、お釈迦様と同じ地域(コーサラ国)に居住しておりました。お釈迦様自身もまた人種的にはドラヴィダ系であった可能性もあり、ドラヴィダ人はお釈迦様と日本人をつなぐルーツとも言えるのです。
②その上、蘇我氏が日本初の女帝である推古天皇を即位させていること。
これこそ「大元制」の慣習による正当な王位継承であり、推古天皇の母が蘇我稲目の娘であるということも、「大元制」の復活という目的に合致するものです。
③その頃の蘇我氏が強圧的と言って良いくらい強引な方法で仏教を日本に広めようとしていること。
蘇我の稲目から馬子、入鹿に至るまでの蘇我氏の行動は仏教の普及だけにあったと言っても過言ではないくらい情熱的で過激なものでした。これは、蘇我氏自身が釈迦族の血脈を引く一族であったから、命懸けでその復興を推進した、とは考えられないでしょうか?・・・
④その蘇我氏が推古天皇を誕生させたのち、新羅の善徳女王の誕生にも一役買っていたのではないか?・・・この頃の新羅は非常に熱心な仏教国で、同じ仏教推進派としても蘇我氏は新羅と強力なパイプを持っていたことでしょう。
ちなみに、善徳女王もまた熱烈な仏教信者でした。善徳女王の四代前、新羅国第23代法興王は生涯、仏教の普及に力を注いだことで有名で、この王の即位以降、新羅国は仏教寺院が林立する大仏教国となって行きます。
その法興王の孫に第25代真智王という王がいます。そして真智王と同時代の蘇我氏の首長は「蘇我満智」・・・いずれも仏教用語のようでもあり、よく似た響きがあります。
その蘇我満智の父が蘇我氏の始祖である蘇我石川宿禰ですが、この人物を武内宿禰の子供とするには年代が合わない気がします。このあたりの人物の正確な生没年がわかっていないので、あくまでも私の推測ですが、蘇我石川宿禰は武内宿禰よりもかなり後世の人だったのではないかと私は考えています。
また、この人物の名前にある「石川」という文字は、現在の石川県の元になったという説もあり、蘇我氏のルーツが能登半島あたりにあったことを示しています。このことも蘇我氏と武内宿禰が無関係であり、また、蘇我氏が半島から北陸の地に渡来した渡来人の家系であることを匂わせます。
そして、蘇我という名前の持つ「私は生き返る」という字儀は、釈迦族の復興を祈願した言葉なのではないかと私には思われるのです。
前述しました「蘇民将来」はやはり北陸の地でスサノオと出会い、ここでスサノオ一族と血縁ができたのではないか?
蘇民将来こそ蘇我氏の始祖であり、蘇我石川宿禰は蘇民将来の何代か後の後裔なのではないか?
こうした仮説をもとに、次回から「では、日本最初の仏教伝来はいつ、だれによってもたらされたものか?」という課題の検証に入ります(続く)。
追記:先日の投稿の後、大須賀あきら様から「蘇我善徳」と新羅の「善徳女王」も関係があるのではないか、というご指摘をいただきました。少し調べてみますとこの蘇我善徳、聖徳太子と同一人物ではないかという説もあるくらい、当時の仏教敷衍に重要な役割を果たした人物のようです。蘇我善徳と善徳女王はもしかしたら血縁関係があったのかもしれません。・・・すると、新羅の法興王と蘇我氏は半島と日本にまたがる大仏教王国を築こうとしていたのかもしれません。なにより、「善徳」という言葉自体仏教用語なのですから・・・。

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