月の民の足跡⑧ 骨品制という王位相続制度 (佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

月の民の足跡⑧ 骨品制という王位相続制度

 前回、民族によって男系相続の場合と女系相続の場合があるという話をいたしました。
 今回はこれに関連して、「骨品制」という相続制度についてご説明します。

 この骨品制は王位継承に関する規則であり、王族の中でも両親がともに王族である者を「聖骨」と呼び、最も優先的な王位継承権を持つ人物とみなします。
 次に、父か母、片方の親だけが王族である者を「真骨」と呼び、聖骨に次ぐ王位継承権を有する身分とされました。
 以下、王族の血が薄まって行くにつれて身分も低下し、王位継承権もなくなって行きます。

 この制度は古代、朝鮮半島の新羅国における制度だったようですが、この制度は微妙に日本の社会にも影響を及ぼしています。

 ・・・皆様はかつて高校で日本史を勉強されたとき、聖徳太子の頃の皇室系図が近親婚ばかりになっているのを見て、不思議に思われたことはなかったでしょうか?

 そう、この「骨品制」という考え方は新羅経由で日本に伝えられ、その頃の日本の皇位継承に大きな影響を与えていた制度だったのでした。

 たとえば、天皇の息子と天皇の娘が結婚すれば、近親婚ながらこのカップルは文句のつけようのない「聖骨」です。
 これ以上強い王位継承権はなく、他の者が皇位を狙って争ったとしても、自分たちの血筋の正しさを理由に退けることができる血筋となります。

 しかし、どちらか片方、たとえば天皇の妾腹の子供の場合は、「真骨」にしかなれませんから、「聖骨」の継承者がいる場合には皇位には就けません。真骨の者が王位に就けるのは、聖骨の者がどこにもいない、という場合に限ってです。
 いとこ同士、あるいは腹違いや種違いのきょうだい同士で結婚している例が聖徳太子の時代に多いのはこのためです。

 たとえば、推古天皇と敏達天皇は異母兄弟ですが、結婚して夫婦になっています。また、その母親同士は同じ蘇我の稲目の娘、つまり姉妹でした。

 また、推古天皇の同母兄・用明天皇とその妻・穴穂部皇女もまた異母きょうだい。
そして、この夫婦から生まれた子供が聖徳太子です。
 さらに、聖徳太子と推古天皇は二重の意味で甥と叔母の関係になります。
(文章で書くとわかりにくいので下の家系図をご参照ください。)

 できるだけ聖骨、もしくはそれに近い血縁者でいられるように、極限まで天皇の血筋に近い身分でいられるように、また、聖骨同士の結婚によって、生まれてくる子供もまた聖骨でいられるように、という願いから、近親婚が異常に増えたのでありました。

 そして、この時代の新羅の風習が日本に入ってきているということは、日本の皇室が代々半島から王妃を迎えていたことにも起因しているでしょう。伽耶国がその最たる供給国だと思われますが、新羅国もまた伽耶国の親族国家であり、伽耶国が衰弱したのちにはほかの国から日本に来た王妃もかなり存在していたのではないかと思われます。たとえば、神功皇后の母は新羅の王女、桓武天皇の母は百済の帰化王女でした。

 また、天皇制を確立して絶対王権を作り上げた天武天皇の父は舒明天皇、母は皇極(斉明)天皇。これはもう文句のつけようのない「聖骨」だったわけです。

 天武天皇の出自については偽装説もあり、真実かどうかは怪しいところがあるのですが、もし真実でないとすると、逆に、天武帝が聖骨であることをことさら強調したがっており、ニセの系図を記紀に書かせてでも自らの出自をだれからも文句を言われないくらい高貴なものにしておきたかった、という意図が感じられてきます。

この骨品制という思想は当時の朝鮮半島や日本に限らず、他の国でもある程度共有されていたようです。

 現代の日本でも、格式の高い家同士で婚姻をとり行うとき、必ず双方の家柄を重視しま
す。格式の高い家ほどそれに相応する釣り合いのとれた家格同士で縁組を行う必要があり、このバランスが崩れると家が滅んだり、政変が起こるきっかけになったりしました。この風習は古代から中世戦国時代、近代を経て、現代まで変わらず続いています。

 私は昨年韓国を訪れ、旧新羅国の首都・慶州の郊外にあった善徳女王の陵墓に行き、そのすぐそばに四天王寺があるのを見て非常に驚かされました。

 善徳女王在世当時の日本はどちらかというと百済寄りの外交政策を敷いており、新羅国とはあまり連絡のなかったような印象を私は持っていたのですが、真実はさにあらず。
新羅もまた日本との交流を活発に行っており、当時の日本に様々な面で大きな影響を与えていたのでした。

 善徳女王は朝鮮半島の歴史上最初の女帝であり、女性でありながら王位に就けたのは、彼女がほかならぬ「聖骨」だったからです。この当時、「聖骨」の資格を有するのは彼女一人でした。

 また、善徳女王は熱心な仏教の保護者でもあったようです。善徳女王の陵墓のすぐそばに四天王寺が建立されていたのですが、伽藍の配置や御祭神などが聖徳太子の建立した日本の四天王寺そっくりで、この頃の新羅と日本の交流の深さがうかがえます。

 そして、593年に日本初の女帝である推古天皇が即位、これを前例として踏襲するように632年に善徳女王が半島初の女帝として即位。・・・このことも無関係と思えません。
この頃の両国の政治はお互いに関連し合っているのです。

 ではいったいだれがどうやってこのような風習を半島から日本に持ち込んだのかというと、私は「蘇我氏」こそがその張本人であり、女系相続も仏教も、蘇我氏が半島から持ち込んだのではないかと考えています(続く)。

(写真は韓流ドラマ「善徳女王」でも人物相関図。王の愛妾であったミシルはその権謀術数により絶対的勢力を築くが、聖骨であるトンマンには逆らえず王にはなれなかった。

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