月の民の足跡⑥ 政略結婚が歴史に及ぼす影響。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

月の民の足跡⑥ 政略結婚が歴史に及ぼす影響。
古来、日本列島と朝鮮半島の間では政略結婚が頻繁に行われてきました。
これはこの当時、双方の国が経済を両国の貿易に大きく依存しあっており、友好的な関係を保ちながら通商・貿易を発展させることがお互いの国家経営の至上課題だったからです。
半島にあった国の王女が日本列島の国の王子に輿入れしたり、日本の国の王女が半島にお嫁に行ったり、また、日本の王女が半島から婿を迎えるということもあったようです。
国際結婚して子供が生まれれば、その子は両方の国の血筋を引いています。つまり、どちらから見ても親族になるわけです。親族ほど信頼できる関係はなく、こうした政略結婚は非常な長期間に及んで伝統的な慣習となって行きました。
このような視点から日本の古代史をとらえるとき、記紀に描かれた様々なエピソードの起こった具体的な理由が見えてきます。
因幡の浩菟伝説に描かれたオオナムチとヤガミヒメの婚姻をはじめとして、実に多くの人々、それも相当な大物たち、記紀では神と呼ばれる人たちが、やはり政略結婚のために日本に渡来して来ているのです。
たとえば、スサノオと奇稲田姫の結婚。
スサノオは新羅のソシモリから来たと日本書紀にはっきり書かれていますが、出雲の王女であった奇稲田姫との結婚にあたって、ヤマタノオロチ退治という大功績を上げて奇稲田姫の父・出雲王テナヅチから認められ、王として迎えられています。
また、天孫降臨と呼ばれるニニギの来日。
ニニギの渡来してきた目的は、日本の熊襲国の王女・コノハナノサクヤヒメと結婚するためでした。この婚姻により半島の伽耶国は熊襲との友好関係を図り、熊襲国は伽耶国から珍しい物品の輸入権を確保、自分たちの土地の産品の売り先も確保して、両国の友好通商関係は確固としたものとなりました。
他にも、宇佐神宮に祀られている比売大君、その北方の島の姫島神社に祀られているヒメコソ、そしてあの宗像神社の三女神も、その正体はすべて半島から日本に嫁いできた姫君であり、日本の人々がこれらの姫様が死んだ後も神様として丁寧に祀ったのは、半島の国との友好関係を維持し、交易による経済基盤を確保するためだった、と、私は考えています。
ところで、この政略結婚には、「国の友好関係の維持」という目的のほかに、もうひとつ重要な目的がありました。それは「武力行使なき統治権の拡大」ということです。
スサノオにしろニニギにしろ、もともとは異邦人であった者が日本人社会に来て日本人と婚姻するということは、彼らが日本人として認められ、日本人社会に受け入れられるということを意味します。のみならず、王の姫君に婿入りするということは、王の世継ぎとなり、次世代の王になることを約束されるということでもありました。
これは、半島の人にとっては日本列島への勢力拡大ということになり、日本の人々にとっては逆に、大陸への進出の足掛かりを作った、ということになります。
この婚姻政策の最大のメリットは、武力を行使しない勢力拡大であるため、戦争によって双方の人々が傷つかずにすむということがあげられます。しかも、婚姻によって双方が親族関係になるため、未来に戦争が起きる確率もぐんと下がります。
スサノオ、ニニギのほかにも、天孫ニギハヤヒはヤマトの国へ入ってその土地の王・ナガスネヒコの娘と結婚。天孫族のヤマト進出の足掛かりを築きました。
また、神武天皇は菟狭国の王女・ウサツヒメと結婚し、菟佐国を自らの王国の版図に入れることに成功しています(記紀にはウサツヒコによる饗応とのみ書かれていますが、宇佐公康氏の著書によると実際は宇佐国と天孫族の政略結婚だったようです)。
・・・少し時代が下がって、神功皇后の母は新羅国の王女でした。新羅国の血を引く神功皇后が日本で天下を取ったことで、新羅から日本への大量移民が実現しています。秦氏はこのとき3万人という大人数で九州に来て、豊前地方に秦氏王国を築いています。このことは少し前の神武天皇のウサツヒメとの結婚が伏線になっていることは疑いありません。天孫族はこのような形で、日本の国と戦争にならないように細心の注意を払いながら日本にじわりじわりと進出してきたのでした。
大陸から姫様を王の嫁に迎えるという風習は、第50代桓武天皇の頃まで続いています。
初代神武帝から50代まで、王族の婚姻の大半が政略結婚だったのかもしれません。
ここで注意すべきことは、長年にわたってこのような婚姻政策が繰り返されたことにより、時代が下がるほど半島と日本の民族の混血が進み、両民族が混合して一つの国家に近くなって行ったということです。
つまり、新羅国や百済国はその国家が成立した初期には日本民族とは血縁が薄かったものの、時代が下がるに連れ次第に濃くなり、その末期にあたっては親族国家と言っても良いくらいに血縁の濃い国家同士になっていたということです。
特に、百済においてはその傾向が顕著でした。
白村江の戦いの直前、半島において四面楚歌状態に陥っていた百済国は滅亡寸前、日本のヤマト王権との血縁同盟だけが頼りでした。
百済王子・豊璋が日本にやってきた目的は、日本となんとしてでも同盟を結び、百済国を滅亡の危機から救うことだったでしょう。当時のヤマト王権の内部には百済国の血を引く人々が大勢いました。文献によっては、この時期の百済国の歴代王と日本の歴代天皇がすべて同一人物であると書かれているものもあります。
最初にこの説を耳にした人はこの事実を非常に奇異に感じられることと思われます。
しかし、「婚姻政策の繰り返しによる血縁の広がり」と、「婚姻による武力衝突なき領土拡大」という古代史の真実を念頭に歴史を鑑みるとき、「なぜ日本の天皇が百済国王を兼ねているのか?」「なぜ日本は半島最弱の百済国を救済するため勝ち目のない白村江の戦いに挑んだのか?」という疑問も解消するのです。
日本が命懸けで百済救援に向かった理由は、文字通り「親族だったから」でした。
(なお、百済と日本の王室の関係を語る文献・資料につきましては、川岡保様主催のFB「早良王国研究会」において詳しく説明されています。添付の図はその一例。川岡様5月18日投稿の「もうひとつの皇統譜」です)。

コメント

タイトルとURLをコピーしました