初期邪馬台国の地(平塚川添遺跡)(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

平塚川添遺跡(福岡県朝倉市)。

私見ですが、この遺跡こそ初期邪馬台国の遺構なのではないか?と私は考えています。

現在では、稲作の渡来は最初、中国からこのあたりに伝えられ、それが朝鮮半島に伝えられた、という説が有力になってきていますが、その、日本最初の水稲栽培が行われたのがこのあたりではなかったか?・・。

邪馬台国論争はもう終わっていて、東遷説で確定している。
そう考えないと、この朝倉あたり一帯の地名と畿内の三輪山一帯の土地の地名が数十か所も一致することの説明がつかない。もし九州か畿内のどちらかだけだったとすると、この「地名の一致」がなぜ起きたのかを説明する必要が出てくるが、それは「九州から移住した邪馬台国の民が、畿内に故郷を再生させようとした。」としか考えられない。

・・・移住した民が移住先の土地に、故郷にちなんだ名前をつけるという傾向はどこにでも見られる。たとえばイギリス人も、移住したアメリカで、ニューヨークとかニュージャージーとか、故郷の町の名前をつけた。日本の新幹線の駅が「新横浜」とか「新神戸」などとついているのも似たような現象と言えるかも知れない。

・・・そんなことを考えながらこの遺跡を歩いてみました。・・・移住する理由は、飢饉や天災などで、その土地では食べて行けなくなったから。・・・そういえば、この朝倉あたりは毎年台風の通り道といって良いくらい、台風がよく来る。それも一番風が強く元気のよい頃、九州に上陸することが多い。・・・最近でも2,3年前の集中豪雨で死者十数人が出て、あちこちで山崩れが起き、相当な面積の家や田畑がだめになっている。・・・治水の行き届いた現代でさえこんな災害が起きるのだから、古代には洪水や天災はさほど珍しくなかったかもしれない・・。

近くには小石原川という川が流れているが、細い川なのでとても大人数をまかなうための川の幸は期待できない。近くに海があれば、海の幸でしのげたのだろうが、ここは海から遠い。・・・やはり、飢饉となれば移住するしかなかっただろう・・。

遺跡そのものはご覧の通り、10軒余りの古代住居と環濠があるくらいで、吉野ケ里あたりと比べると簡素な集落である。が、古代のクニの始まりとはそういうものであっただろう。
・・・それに、もしかしたら、ここしか発掘していないのでこのくらいのものしか出てきていないが、周辺をもっと掘ればもっといろいろ出てくる可能性もあるのではないか?この広大な筑紫平野は稲作に最適な場所であり、弥生時代の集落は遠く吉野ケ里あたりまで点在していたかもしれない。

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