見聞録として読む「魏志倭人伝」②(上野俊一 稿)

上野俊一稿

見聞録として読む「魏志倭人伝」②

陳寿は東夷伝序文に「東夷に今は中国で廃れた礼を見いだした」と書いたが、倭人条本文に特に倭国への強い思い入れを感じさせるのは、倭人条の下記の文章であろう。

A 自郡至女王国萬二千余里 
B 男子無大小皆黥面文身 
C 自古以来其使詣中国皆自称大夫
D 夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害 
E 今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽 
F 後稍以為飾諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差 
G 計其道里當在会稽東治之東

意訳する。
A 郡より女王国まで一万二千里ほどである。
B (ここでは)男子は大人子どもの別なく黥面文身している。
C (そう言えば)昔から中国に詣でた倭の使者は(春秋期に使われていた)大夫を自称していた。
D (春秋期に)夏后少康の子が会稽に封じられた際には、断髪文身して蛟龍の害を避けたという。
E 今、倭の海人たちはよく潜って魚介を捕るが、やはり文身は大魚や水鳥の害を防ぐ為だ。
F それも次第に飾りとなって、クニによって異なるが、右や左、大や小、身分で差があるようだ。
G (一万二千里という)道里を計れば、まさに会稽の治所の東に相当するのではないか。

これは史家としての陳寿のロマンである。
「倭人は或いは春秋戦国時代に大陸から逃れた越等の王族・高官の末裔、かの夏后の流れを汲むものかも」さらに「遠いと思っていた倭だが、江南とは意外と近いのかも知れぬ」と考えたのである。倭人の「礼」の起源をそこに期待したのかも知れない。

その陳寿の視点を理解すれば、倭人伝の不可解な記述の謎も解けることがある。
例えば倭人の習俗を紹介した次の文を見てほしい。

A 其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十余日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 挙家詣水中澡浴 以如練沐 
B 其行来渡海詣中国 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不勤 

Aは葬儀と服喪の方法、Bは大海を渡る際に見た持衰(じさい)の風習
この二文は一続きなのだが、一見無関係に見える。全体として庶民の習俗を紹介する途中、なぜ唐突に持衰の話が出るのか当初は違和感をぬぐえなかった。
感受性豊かな方ならスッと理解できるのかも知れない。
しかし、何度か読み返すうちに「如喪人」で繋がることが私にも分かってきた。
これは「倭人の礼」の話なのである。

「礼」とは孔子が説いた「仁」の実践である。
「仁」という他への思いやりを、形や行動に替えたものが「礼」、その実践のあり方として「克己復礼」、自らの欲を克服し身を慎んで主や他へ尽くすことが大切とされた。
つまりAでは、倭人は身内の死に際し、回りが歌舞飲酒するなか、遺族はむせび泣き十日余り服喪して、故人への「礼」を尽くすことを紹介
Bでは、乗船する全員に降りかかる災いを一身に引き受け、喪人のように身を慎み、不首尾であれば死を以て償う「礼」の実例を紹介したのである。

A・Bを意訳する。
A 倭人の死者の葬り方は棺はあるが槨(枠囲い)は無い。その上に土を被せ塚を造る。死んで遺体を留め置くこと十日余り、その間(遺族は)食肉せず、喪主は声をあげて泣く。周囲では歌舞飲酒する。埋葬を終えると家の者みんなで海や川に浸かりみそぎをする。中国の沐浴のようなものだ。
B (そういえば)倭人が海を渡り往来し中国を詣でる際には、いつも一人を決めておき、彼には髪を梳いて整えたりさせず、シラミがわいても取らせず、衣服は垢で汚れるまま、肉食させず、女性は近づけない。そう、まるで喪に服す者のようなのだ。この風習を持衰(じさい)と言う。もし航海が首尾良くいけば褒美に生口や財物与え労い、もし病気が流行ったり遭難にあったりすれば、彼を殺そうとする。そのわけは慎み励む持衰の責務を果たさなかったからと言うのである。

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