スサノオの足跡㉑ オリオンの三ツ星と布都御魂(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡㉑ オリオンの三ツ星と布都御魂

その3 古事記に秘められた生命蘇生の法

オリオン座はエジプトではオシリス座。オシリスとは死後に蘇生して冥界の王となった人物。その蘇りの神話から、オリオンの三ツ星は古代より生命蘇生のシンボルとして崇められ、ギゼーの三大ピラミッドをはじめ、多くのオブジェが作られました。

ピラミッドを作って死者の再生を願うという思想は遠く日本にまで伝播し、日本各地にもピラミッドが作られたようです。ただ、日本の場合は年月とともに表面に土砂がたまり、植物が繁茂して、一見、普通の山と見分けがつかなくなっているだけ。秋田県の黒又山や兵庫県の八幡山など、人口のピラミッドではないかと思われる山は全国に少なくとも数十はあるようです(詳細は市川慎氏の本を参考にしてください)。

では、「死者蘇生の法」は、具体的にどうやって、だれが、どこから日本に持ってきたのか?ということを、今回は考察して行きましょう。
その謎を解くカギは、古事記にあります。

古事記は真実の歴史を正確にまとめたものではありません。時の権力者の都合の良いように史実が歪曲され、事実とは違う作り話も多く挿入されています。
しかし、そんな物語の中にも作者は「死者蘇生の法」が日本にもたらされたことをなんとかして書き残そうとしました。検閲者の目をごまかすため、一読しただけではわかりにくい挿話を入れ、しかし、わかる人が読めばそれとわかるような巧妙な細工をしたのです。

「死者蘇生の法」の存在を知らしめるため、古事記はなんと、「神武天皇」という、実在しなかった人物を登場させ、この人物が一度死に、蘇ることでこの法の存在を知らしめようとしたのです。・・・古代史上の最重要人物・神武天皇は実際には存在せず、ただ、この「死者再生の法」がいかに重要な秘術であり、いかに大切にすべき法であるかということを示すためだけに創作されたものだったのでした・・・。

古事記の神武天皇条では、熊野山中で敵の悪気に当たった神武軍は全員が昏倒し、あとは敵に首を取られるばかり、という絶体絶命の危機に陥った時、高倉下という人物が登場、この人物が持っていた「布都御魂」という剣の霊力によって神武は蘇生します。
さあ、ここからです。この高倉下という人物はどんな人物だったのでしょうか?

古事記によりますと、高倉下は高木神や天照大御神と一緒に高天原にいた人物で、武御雷命という将軍の配下だったように書かれています。
武御雷命の剣であった「布都御魂」を持って高倉下は神武天皇のもとに救援に駆けつけ、見事に蘇生させるわけですが、実はこの高倉下、斉木雲州氏が大元出版から出しているいくつかの著書によりますと、あの「徐福」の血を引く人物のようなのです。

徐福という人物は記紀において、全く登場しません。が、中国の史書では日本に向かったと書かれており、記紀以外の日本のいくつかの古文書には日本における徐福の行跡が詳しく書かれています。

記紀が編纂された理由の一つは、当時の中国に対して日本の独立性を強く主張する、ということでした。そのため、中国出身者が日本人の祖先の中にいたのでは都合が悪かったのです。かくして徐福は記紀から抹殺されました(蛇足ながら卑弥呼が記紀に登場しないのも、その時代に中国に朝貢を行った事実を隠すためです)。

斉木氏の本によりますと、徐福は日本に渡来してのち、出雲王国の王女・高照姫と結婚、
この二人の間に生まれた五十猛命が同じ出雲王家の大屋姫と結婚して生まれたのが高倉下です。
つまり、高倉下は徐福の孫、ということになります。

ここで徐福という人物の人となりをおさらいしてみますと、彼は中国・山東省あたりにあった斉という国の重臣でした。
斉という国は漢民族の国ではなく、徐福はアーリア人の血を引いていたという説もあります。アーリア人は中央アジアに出自を持つ遊牧民で、BC2000年頃からアフガニスタンやインドなどに勢力を拡大した民族です。
ヘブライ人の出エジプトがBC1200年頃ですので、このときエジプトを出奔したヘブライ人たちは中央アジアのアーリア人居住地域に入ったはずです。このとき、オシリスの神話とともにエジプトから「生命蘇生の法」が中央アジアまでもたらされたと考えられます。
それはおそらく、徐福の先祖にまで伝わったことでしょう。

徐福は方士(仙術を体得した人)であり、また、当時第一級の文人でした。斉が秦に滅ぼされた後は秦の始皇帝に仕えましたが、自分の祖国を滅ぼした人物に長く仕える気はなかったようで、不老不死の仙薬探しという口実を作って日本に渡りました。このとき徐福は神剣「布都御魂」と「十種神宝」を携えていて、このふたつの神器は息子の五十猛命へ、そしてさらにその子の高倉下へと受け継がれたのではないかと私は考えます。
この説を裏付けるように、「布都御魂」の名称の中の「フツ」という音韻は、徐福の本名である「徐市(ジョフツ)」から採られたもの、という説もあります。

斉木氏によりますと、高倉下の別名は「天香久山命」。古事記では、この天香久山の土を採取するために、神武軍の珍彦とオトウカシという二人の家臣が老夫婦に化けて敵中を突破する話も出てきます。
これもおそらくフィクションでしょうが、もし神武東征譚が映画にでもなれば、ここがハイライトと思われる一番の見せ場です。

古事記では、神武天皇は夢で、敵を調伏する方法を神様から授かります。その方法とは、「香久山の土で作った杯を使って祈れ」というもので、ここにおいては「天香久山」という山の土がいかに貴重で稀有な効能を持った土であったか、ということが強調されています。
これはおそらく、高倉下という人物がどれほど重要な人物であったか、ということを、遠回しに、比喩的表現で、それとなく暗示したものでしょう。前述した理由で、高倉下が重要人物であるということを、古事記の作者は書きたくても書けなかったのです。

・・・いかがでしょうか? 神武東征譚における「瀕死の神武天皇の蘇生」と「敵を突破しての香久山の土の入手」という心踊るようなドラマチックな挿話を介して、作者は「生命蘇生の法」を高倉下が日本にもたらしたことを暗示しているのです。

なお、斉木氏によりますと、神武天皇は実在しないものの、そのモデルとなった人物は存在していて、その人物とは、高倉下の腹違いの兄にあたる「天村雲命」だということです。この人こそが「ハツクニシラススメラミコト」だったのかもしれません。
そして古事記における神武東征譚は、五瀬命という九州北部の王が行った東征の実話をもとに、南九州にいたヒダカサヌと天村雲命のヤマトでの行跡を加えて、ひとつの物語にしたものではないか?と私は考えています。

(写真は高倉下を祀る熊野・神倉神社)。

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