スサノオの足跡⑬ 八岐大蛇 再考 その2(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡⑬ 八岐大蛇 再考 その2

八岐大蛇の正体を探るときに手掛かりになるのが、古事記にある「是高志之八俣遠呂智」という言葉です。

「コシのヤマタノオロチ」と読め、コシとは地名であると思われることから、この言葉は「越」、つまり越前、越中、越後地方、今の石川、富山、新潟県一帯を指しているものと思われます。

私は、この「越」という地名は中国、春秋戦国時代の「越(えつ)」という国に由来するものではないかと考えています。

日本には他にも「呉」という地名もありますが、越も呉も古代中国の東シナ海沿岸部にあった国で、いずれも秦の始皇帝が中国を統一する前に滅びていますので、その遺臣が日本列島に逃げ延びて住んだ場所ではないかと思われるのです。

スサノオは出雲国に降り立ちました。現在の出雲大社がある場所に近く、この出雲と「越」地方は500キロくらい離れています。
出雲国はインドからドラヴィダ人がやってきて興した国のようなので、出雲人は先住日本人にドラヴィダ人の血が少し入った民族だったと思われます。これに対して越地方は中国の越国出身者が住み着いた国だったとすると、出雲人と越人は人種的にかなり異なるので、不仲だったのかもしれません。

この越という地方の近く、現在の福井県には九頭竜川という川が流れています。そのあたりも古代には越と呼ばれていたのかもしれません。

この九頭龍という名前ですが、全国的には九頭龍大明神として祀られる神様であり、インドから仏教が渡来した時に仏教守護の神様として伝わった、という説があります。

さて、ここで、以前私が「八岐大蛇は八つに枝分かれした首を持つ龍ということだから、股が八つということは、首は九つあったのではないか?」と指摘したことを思い出していただけるでしょうか?
そう、九頭龍大明神は、八岐大蛇の原型である可能性があるのです。

記紀において九頭の龍が八頭に変えられたのは、出雲国の聖数が「八」であり、スサノオの英雄譚としてたいへんおめでたい内容に仕上げる必要があったからでしょう。

また、同じく仏教の守護神として「八大龍王」という神様があります。
この神様の場合は八岐大蛇と形態がぴたりと一致します。

一説には、八大龍王は役小角が奉斎したと言われ、役小角は天武天皇を助けて活躍したと伝えられていることから、八岐大蛇とは八大龍王と関係するものである可能性もあります。

ちなみに役小角の生没年は諸説ありますが、一説には624~710年。古事記の成立は720年です。そして、記紀の編纂を命じたのは天武天皇でした。

ところで、九頭龍や八大龍王の原型はインドのナーガ神にあると思われます。現代でもタイやカンボジアではナーガ神の像が仏教寺院の前に建てられていることが多く、その姿は八頭の龍であることが多いようです。

ここで私が気になるのは、もし八岐大蛇が仏教守護神の性格を持つ九頭龍大明神、あるいは八大龍王に関係するものであった場合、スサノオの八岐大蛇退治とは宗教戦争の意味合いがあったのではないかということです。

大元出版の本によりますと、出雲国にも蛇神を祀る習慣があり、スサノオは出雲渡来時に出雲人が作った藁蛇像を斬って歩いたそうです。

このことも深読みしますと、当時の出雲国にもお釈迦様の教えである原始仏教が入って来ており、そのシンボルとして蛇神が祀られていたものを、異民族であり異教信仰者であるスサノオ族が弾圧した、という事実が隠されているのではないか?という気がするのです。

なにせ、出雲国を作ったと言われるドラヴィダ人とは、お釈迦様と同種の民族であった可能性が高く、出雲に渡来したと思われる時期は、お釈迦様の入滅後さほど間もない時期だったと思われるからです。出雲人自体が釈迦族の末裔だった可能性すらあるかもしれません。

役小角は道教的な仙術を使い、また真言も唱えたと言われています。これらはお釈迦様の教えではなく、のちに発展した大乗仏教の一部が中国経由で道教と混交して伝えられたもので、この時代あたりから日本仏教は大乗仏教が広範に広がり始めます。

これに加えて興味深いことは、九頭龍川を含む「越」地方一帯が、あの蘇我氏の地盤だったということです。斎木雲州氏によりますと蘇我氏は北陸で勢力を伸ばし、一族の中から継体天皇を出したことでヤマト王権の中での地位を確立し、大豪族として歩み始めます。

蘇我氏と言えば日本に仏教興隆をもたらした立役者です。記紀では悪役のように描かれていますが、実態はそのイメージとは真逆で、蘇我氏は仏教伝播のために代々身命を捧げた一族だったようです。あの聖徳太子も蘇我氏の一員であり、彼ら蘇我氏は現代まで続く日本の仏教文化を確立した存在です。

記紀においては編纂者が相当な悪意を持って蘇我氏を謀反人に仕立て上げているようなところがあります。これは蘇我入鹿を謀殺した藤原鎌足の所業を正当化するために、鎌足の息子であり記紀の編纂管理者であった藤原不比等が史実を捻じ曲げて書かせたもので、真の謀反人は鎌足と中大兄皇子、真の被害者は入鹿のほう、という見方が最近急速に広まっています。

しかしながら、では、蘇我氏はどうやって、どのような方法で仏教を日本にもたらしたのか?ということについては、寺院の建立や仏像の購入などの目に見える仕事についてはまとめられているものの、なぜ蘇我氏がそれほど熱心に仏教の布教を行ったのかという根本的な理由についてはまだ解明が進んでいるとは言えません。

私には、蘇我氏が釈迦族の末裔であり、大乗仏教だけでなくお釈迦様の原始仏教をも導入した家系ではないかと思えるのです。
そのひとつの論拠になるのが蘇我氏の地盤の北陸に流れている九
頭竜川であり、八岐大蛇の原型となった可能性のある八大龍王です。仏教の伝播はこの地から始まった可能性があり、スサノオはこれに反発した民族であった。

これまで見てきましたように、スサノオは南朝鮮にあった伊西国の神を日本に持ち込み、元伊勢と言われる場所を転々としながら、最終的には伊勢神宮にその神を奉戴しています。

つまり、一般的には飛鳥時代の蘇我氏と物部氏の抗争と認識されている神仏抗争が、実はスサノオ渡来の頃からあった・・・。そしてその抗争の最初の大事件が、記紀に描かれている「スサノオによる八岐大蛇退治」ではないかと、私には思えるのです。

次回から、この仮説について論証を試みたいと思います。

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