スサノオの足跡② スサノオのウケヒと宗像三女神(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡② スサノオのウケヒと宗像三女神
古事記によりますと、イザナギが左目を洗った時に生まれたのがアマテラス。右目を洗った時に生まれたのがツクヨミ。鼻を洗った時に生まれたのがスサノオ、という記述になっています。
これも一種の象徴的表現だと解釈しますと、左目、右目と例えられたアマテラスとツクヨミは同等、そして同種の存在であることが説明されている、というように受け取れます。
一方、鼻に例えられたスサノオのほうは明らかに別種、アマテラス族やツクヨミ族とは別民族であったことがここでほのめかされているようにも思えます。
日本書紀のほうではこの場面になんと六通りもの異なる伝承が記述されているのですが、その中の第一の別説では「イザナギが肩を回して後ろを振り向いたときに生まれたのがスサノオである」という記述になっており、こうなるとますますスサノオは別民族のようで、、もともとは敵対していた民族であるかのような取り扱いを受けています。・・・あるいは、この記述はスサノオがアマテラス族、ツクヨミ族とはまったく違う方角からやってきた民族であることが示唆されているようにも見受けられます。
スサノオは生まれてきた当初、母親であるイザナミの国に帰りたいと言って泣いてばかりいたという記述がありますが、そのイザナミの国というのが「根の堅洲国」。
果たしてこの国はどこにあった国なのか?・・・。
調べてみますと、「根の堅洲国」は黄泉の国と同義であるとされているようです。
「根の堅洲国」を「黄泉の国」と解釈するのは、次のエピソードでスサノオが「母の国に帰りたい」と言って泣いてばかりいた、という記述があることからの解釈でしょう。
しかし、そうであれば、「黄泉の国」をわざわざ「根の堅洲国」と言い換えている理由が不明になります。
また、イザナミが黄泉の国へ行き、イザナギがそれを追いかけるというストーリーは最初から最後までギリシャ神話のオウフェウスとエウルディケの話とそっくりであり、記紀がこの神話を拝借したと考えるのが自然です。つまりこの話は実際に起こった事実ではなく、物語の展開を面白くするために装飾的に挿入されたエピソードであり、史実とはあまり関係がないと言って良いかもしれません。
前述したとおり、イザナギ、イザナミという夫婦設定も、それに続く国生神話も旧約聖書のアダムとイヴの物語の型紙を拝借しており、記紀にはこのような他者の本をコピペしたような記述が多々あるところから、偽書という烙印を押されてきました。
しかし、すべてが嘘で塗り固められているかというとそうではなくて、事実が6~7割、虚実が3~4割くらいの比率で書かれているのではなかろうか?と私は考えています。
たとえば、国生み神話の構成は借り物であっても、日本列島が作られてゆく順番やその生成方法にはなにかしらの史実が隠されている可能性がありますし、イザナギ、イザナミの物語もアダムとイヴの物語のスタイルを借りてはいるものの、語られる内容の細かな部分は異なっており、この異なっている部分にこそ歴史の真実が隠されているのではないか、と思われるのです。
・・・話を「根の堅洲国」に戻しますと、この国はおそらく高天原のあった伽耶国の近くにあった国であり、スサノオがアマテラスに会いに来た時にアマテラスはスサノオが攻めてきたと思って守りを固めた、というエピソードは、スサノオの一族が高天原を滅ぼしかねないくらいの軍事力を保持していた、ということを意味しています。
・・・すると、この時期のスサノオの居住地はおおむね想定できます。
その場所は、新羅。
もっとも新羅という国はこの当時、存在していたかどうかも確かではなく、あったとしても伽耶諸国のすぐ近くにあった都市国家の一つに過ぎませんでした。
正確に言いますと、後年に新羅国となった地域である、大伽耶国のすぐ東側に伊西国、伊西古国という国があったようで、このあたりがスサノオの居住地として非常に有力なのではないかと思われます。
ひとつの仮説として、伊西国にいたスサノオが伽耶国のアマテラスに挨拶に行こうとしたところ、軍勢を伴っていたので、アマテラスはスサノオ軍が攻めてきたと勘違いした・・・という史実が考えられるのです。
仮説を続けます。こうして一時的に緊張状態に入った伽耶国と伊西国ですが、政略結婚という形で和平交渉を成立させます。これがアマテラスとスサノオのウケヒ(誓約)として記紀で語られる場面です。
誕生した時は姉と弟、という説明だったこの両者が、ここでは妻と夫という関係にすり替わっています。このあたり、民族の紛争を個人の話に置き換えていることで無理が生じていると思われます。
つまり、彼らは軍事衝突を避けるために政略結婚を行い、アマテラス族(天孫族)の王女をスサノオ族の王子が娶ったのです。そして、立て続けに三人の女児が生まれ、ウケヒはスサノオ族の完全勝利に終わったのでした。
ところで、この三人の女児とは宗像大社に祀られている宗像三女神であり、宇佐神宮の御祭神である比売大君にも比せられる人物であることに注意が必要です。
宗像三女神の嫁いでいった北九州の国(魏志倭人伝の奴国?)からは「漢倭奴国王」の金印が出土しました。中国から金印を授かったということは、この国の王が中国と軍事同盟を図っていたということです。中国と同盟を図るということは、この国は朝鮮半島の国・伽耶国と対立関係にあったと考えられ、一大戦争に発展した場合は中国(前漢)の助けを借りようと考えていたということでもあります。
・・・しかしながら、伽耶国ではアマテラス族とスサノオ族が政略結婚によって和解し、その子供たちである宗像三女神が奴国に嫁ぐことによって、伽耶国と奴国の間の対立にも一応の終止符が打たれたようです。宗像三女神は奴国で大切に扱われ、死後も辺津宮、中津宮、沖津宮という三か所の神社に祭られました。そうやって奴国は伽耶国に対して、友好関係を大切にしたいという気持ちに変わりがないことを伝え続けたのです。
宇佐神宮の比売大君は、その西側20キロほどのところにある薦神社(宇佐神宮の元宮と言われる)の由緒書では「宗像三女神の総称である」と説明されています。さらにそこから宗像大社まで北上し、辺津宮、中津宮、沖津宮と辿ってゆきますと、沖ノ島にたどり着きます。
沖ノ島は古代日朝交通の要衝で、対馬、九州、本州の周防地方からぎりぎりの可視領域に位置しています。宗像三女神はこの沖ノ島を経由して九州へと嫁入りしてきたに違いなく、
当時の日朝の平和関係を支え続けた存在でした。
しかし、その平和関係はつかの間の出来事であったのです(続く)。

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