古代鹿島を3重の同心円で考える

歴史考

古代鹿島の成り立ちを三重の同心円で考える

YI YIN

 古来、日本において神社とは単に信仰の拠り所であったいうことを含めて人々の生の営み全体の紐帯機関でありました。
 弥生時代を迎えて富の蓄積が膨らむに連れてますます中央との絆、さらに遠方の地域とのネットワークの一環としても重要な機能を活かされるようになりました。
 

 日本書紀に表された鹿島の神、香取の神、そして退治される側の天の甕星の香香勢男との確執については茨城県のそれを表記する地名が重なり合うのですから、事実上の事件であると思うのが自然です。

 これら三神の出来事がどこまで脱神話として語られるか、というのが本稿における私の目論見です。
 この香香勢男のことについては前回の投稿で和邇氏との関連を指摘しました。
 さて今回も本日早朝の藤田先生のご投稿に触発されて拙論を発表する運びとなりましたことをまず述べさせてもらいます。この投稿はどちらかというと手前味噌ながら鹿島様を中心に論じた投稿となります。
 そういうことで、鹿嶋を論じる際、鹿島様を同心円の中心に据えると面白いほど私の論が分かりやすくなると思えます。三重の同心円です。
 最初に小さい同心円からまず説明していきますと現在の鹿島神宮を取り巻く最初は当神宮の近くの三笠、高天ヶ原という地名、北側には沼尾(当時の郡庁)の切り立った台地(後の時代には塚原卜伝の館場所)。そこには、坂戸(中臣氏の先祖神天の児屋根)、沼尾という摂社。南側には、鹿島台地の先端付近とも言うべき神野の跡宮(鹿島神宮の元所在地)。おそらく禰宜の東氏の住まいがそこにありますので、間違いないと思われます。そこから下を見れば、古来、麗しき「見目浦」。(古事記に出て来ます高倉下の正夢のお陰で天井から下ろされたフツの御剣で神武様の大和入りが成就した。)それから南方に位置する天の鳥舟を祀る息栖神社も範囲に入れられると思います。

 次に中間の輪を見てみましょう。そこには北浦を挟んで潮来市があります。そこには大生(意富=おお=多)神社があります。近辺には大きな古墳群があります。「常陸風土記」に出て来ます「建借間命」由来と言われております。この人物は、神武天皇の長男「八井耳命」の子孫といわれます。おそらく彼の常陸入り(当時は那珂国)の当初は笠間か水戸の飯富(元は八井耳命の一族名の『意富』)から南下して領地を広げたのではないかと思われます。
 この「カシマ」が後の「鹿島」になったという説が有望です。その他の説としては「甕島」とも言われています。この「借間命」については「常陸風土記」の件にその行軍中、火の国の「杵島曲(ぶり)」を歌ったという記事から肥の国の出身とも言われます。よく日本語もヘブル語のように母音の音便移動のある言語とも言われ、あの「益城」がこちらの「益子」になったのかも知れません。笠間の大井神社の言い伝えには「鹿島に貸した門が帰って来ないで今に至り、だから当神社には今でも鳥居がないままだ」とあります。
 現在の稲敷市はさらに西側の潮来市と霞ヶ浦を挟んだところです。そこにはアンバ様の阿波山神社、景行天皇の行幸碑。さらには縄文晩期の人面遮光土器の出土した土地で、福田というところには古墳群があり、印旛沼湖畔の龍角寺古墳群の比ではないものの鉄剣が多く眠ってたということで盗掘の被害で見る影もないと言われるほど古代には豊かな土地であったということです。後の白鳳期には茨城県最古の仏像も製作されたとか。そしてそこの「立ち切り遺跡」は河野辰男氏などの調査で今の千葉県側にある香取神宮の元宮があったとされました。ということは今の鹿島のより近くにあったということになります。

 大きな同心円の一番外側がこの香取神宮であり、茨城県の那珂川と久慈川の中間に位地します香香勢男退治で活躍した倭文(しずおり)の葉槌神、そしてここも稲敷市の阿波由来の阿波山が那珂川の対岸にあるのです。
 そして鹿島灘の北側に日立市大甕があり、ここの大甕神社は主神、葉槌神、そして征服された側の香香勢男さんも、列神として祀られております。

 ただ今の香取市は元は佐原市といい、伊能忠敬が活躍した町、水利を生かして大商売で成功しました。香取神宮の親神様は現在の匝瑳市の老尾(おいお)神社。岩筒男、岩筒女の両神。
 匝瑳市の「匝瑳」も「麻」を意味して「總」とも称し、「夏ごろも」の枕詞でも表されます「糸をつぐむ」優雅な意味のある神処でもあります。本来はやはり「印旛」とならび、阿波からの流れであり、後に物部氏の領有になったのでしょう。香取はその他に「舵取り」という水運ならではの由来もあります。

 話を戻しますと、言い伝えでは、今の海岸沿いの鹿島様は、大生神社と稲敷市の元香取から移植されたと仮定できるのです。現在、鹿島神宮の宝とも言うべき「フツの霊剣」がなぜ香取になくて鹿島にあるか、それはもともと物部氏の所蔵が物部氏の凋落によって中臣氏に移ったということを示しているというべきで、両神宮が藤原氏の領有の後、二神同一として記紀に表れたりするのもうべかりしことと思うのです。

 中央の覇権が葛城から大伴、大伴から物部へ、物部から蘇我に、蘇我から、中臣へ。そうしているなか、ここ当地では、安曇(忌部或いは阿波族)や和邇氏。そして尾張(一説によれば武甕槌神の親神はカグツチ神の他に「伊都之尾羽張神」となっている)から物部、そして物部から蘇我へ、そして蘇我から中臣へと有力者が代わって行ったのです。

 中央政府の全国への波及は、明日香の宮で粛々と、隣合わせの大族、多(意富)氏と秦氏によって進められ、最終的には中臣(藤原)氏によってそのグランド・デザインが統合実現したと言えます。
 古来、鹿島神宮の御手洗い池の下には北浦の水が近くまで入り込んでいたと言われています。それに面して「鎌足神社」がひっそりと鎮座しておりますことは当地の人はよく承知している訳ですが、はからずも鎌足さんの深慮が当地から、全列島にまで及んでいたかも知れないとは思うだに驚きです。

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