89. 一時撤退―ナディール号発進前夜

旅立ちの助走(Hop before Leap)
  1. 一時撤退 ―ナディール号発進前夜
    (SF長編『ミーターの大冒険』/銀河再興サーガ)

キーワード
銀河再興SF/ミーター(Meter)/ハニス・イザル/反クォンタム律
ナディール号/銀河百科辞典編纂図書館
クロノ・ブルーム・プロセス/ネオ・エーテル/地下抵抗組織
SF政治ドラマ/宇宙亡命/別動隊

本文

静まり返った銀河百科辞典編纂図書館の奥、
照明を最小限に落とした制御室で、
ハニス・イザルは一息に言葉を吐き出した。
ハニス・イザル
「ミーター君。残念だが、一時撤退だ。
挽回策はすべて潰された。我が党、銀河再生党は非合法指定。
旧党員の一斉連行が始まるという通報を受けた」
彼の声は落ち着いていたが、
そこには決断の重さが滲んでいた。
「これから惑星イフニア行きの航宙船に密航する。
イフニアで地下グループを再編するつもりだ。
さきほどまで、ロン・シンファーと連絡を取っていた」
短い沈黙ののち、彼は苦く笑う。
「リーン・チャンドラの部隊が、俺のアジトを包囲した。
脱出できたのは文字通り、紙一重だった」
ミーター(Meter)
「そんな……!
ハニスさん、まだ他に方法があるのではありませんか?
悔しいです……あまりにも」
ハニス
「ロン・シンファーの読みでは、
君に累は及ばない。それだけが救いだ」
彼は一歩、ミーターに近づいた。
「だが、君にはしばらくこの場所を離れてもらう。
もし俺の再起が遅れ、
君が先に戻れるようなら、その時は、加勢してほしい」
わずかに目を伏せる。
「アポリアナ・ペリゴールと君の悲願を、
この手で成し遂げられなかった。……それが、心残りだ」
だが、すぐに顔を上げた。
「もっとも、策は潰えてはいない。
ロンの計らいで、別の戦法に切り替える。
ラムダ・グリス博士に倣い、
敵の“裏の裏”をかく」
ミーター
「……それは?」
ハニス
「俺はイフニアに潜伏し、
惑星ネオ・エーテルのロンと連絡を取り合いながら、
クロノ・フラワー・プロセスを進める」
そして、静かに告げた。
「君は―
ナディール号に乗れ」
ミーター
「なんですって?
それは……そういうことなんですね!」
ハニス
「ああ。
銀河百科辞典編纂図書館の全データ移送は完了した。
さらに―もう一段階、上の機能が加わっている」
天井を見上げる。
「まもなく、この館の直上に
ナディール号が到着する。
完全自動航行だ。君は乗り込むだけでいい」
一瞬、声を低める。
「亡きオリン・バーの置き土産だ。
惑星ネオ・エーテル五百年の叡智が詰まっている」
ミーター
「行き先は……?」
ハニス
「決まっている。
『故郷の星』だ。
ひとっ飛びだよ。心配はいらない」
ミーター
「ハニスさんは……
僕と一緒には、行かないのですか?」
ハニス
「俺には、まだやることがある」
短く、しかし強く言った。
「ロンの構想では、
まず一人、
“無謬の直感力”を持つ青年を探す」
そして、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「もう一人。
『故郷の星』に取り憑かれた、
ほとんど狂人じみた歴史家だ。
自称、証古学の亡者らしい」
ミーター
「……二人の人間。
それが、別動隊なんですね?」
ハニス
「ああ。
銀河はまだ、終わっていない」
その言葉と同時に、
図書館全体が、かすかに震動した。
ナディール号、降下開始。
ミーターは、
銀河の再興が「次の段階」に入ったことを、
確かに理解した。

第一部『紫からの飛躍』完結
第二部『イルミナ』にご期待!

余録※ ナディール

オリン・バーは、連邦辞書編纂図書館に毎日通っていた。肩書を捨て、一般閲覧者を装い、黙々と棚を巡る。その日、彼は人類起源惑星オルビタルに関する古い文献群の前で足を止めた。背後から、司書に扮したドーラが一冊の本を差し出す。題名はただ一語―『ナディール』。

オリンは、その本を貪るように読了した。

I. 天文学的語源(作中公式)

ナディール(Nadir)とは、天文学において天頂(Zenith)の正反対、すなわち観測者の足元方向、見えない最深部を指す。作中でこの語は、

銀河文明が最も低く、最も暗く沈んだ地点

公的記録・支配構造・権力の光から完全に外れた座標

しかし反転すれば、新たな天頂へ到達する臨界点 という三重の意味を帯びる。

「文明は、天頂からではなく、ナディールからしか再生しない」

後年、オリン・バーの設計注記として引用される一節である。

II. 神話的語源(古層設定)

「ナディール」は、起源語の (対向点/稀なるもの)に由来し、中世天文学を通じて“反対側の真理”という思想的含意を獲得した。

銀河古層文明の神話では、

天頂=神々が支配する光の座

ナディール=神々が見捨てた闇の底 と語られる。だが、神話的英雄は常にナディール側から現れる。

この逆転の伝承こそが、後のクロノ・ブルーム・プロセスの思想的原型となった。

III. 艦名としての思想的意味(物語中核)

ナディール号は、

権力中枢から発進せず

正史や年表に記録されず

勝利の象徴にもならない

その代わり、
亡命者
異端者
歴史から削除された者
「故郷の星」に呼ばれた者 のみを乗せる。

ゆえに銀河政府の内部文書では、

「記録不能航宙体(Unregisterable Vessel)」 と符号化されている。

IV. 命名理由(オリン・バーの言葉)

オリン・バーは、生前こう語ったと伝えられる。

「天頂を目指す船は、必ず誰かを踏み台にする。 だがナディールからなら、誰も踏まずに反転できる」

百科辞典データ移送艦の最終形に、彼があえて最低点の名を与えた理由である。それは敗北の名ではない。反転点の名だった。

V. 読者補助メモ

ナディール号:銀河文明が最も低く落ちた地点から飛び立つ船。

ミーターが乗る理由:英雄ではなく、人類の残余を引き受ける存在だから。

ハニスが残る理由:ナディールは一隻で十分だから。

この余録は、オリン・バーが『ナディール』を読み終えたその日に、設計思想として彼の内部に定着したと、後世は記す。

※オリン・バーは連邦辞書編纂図書館に毎日通い、一般人を装って情報を収集していた。ある日、人類起源惑星オルビタルに関する文献を探る中で、司書に扮したドーラは彼に『ナディール』と題された謎めいた本を読むように勧めた。オリンはその内容に没頭し、貪るように読了した。

「ナディール号」という艦名は、天文学における「観測者の足元方向」「見えない最深部」を意味するナディール(Nadir)に由来する。これは、銀河文明の最も暗く沈んだ地点であり、公的記録から外れた座標を指す。しかし同時に、反転すれば新たな天頂へと到達する「臨界点」をも意味する。「文明は、天頂からではなくナディールからしか再生しない」というオリン・バーの言葉は、この艦名に込められた思想の核心を示している。

この艦名は、神話的な意味合いも帯びている。アラビア語の「対向点・稀なるもの」に由来する「ナディール」は、“反対側の真理”という思想的意味を持つ。神話では、天頂を神々の座とするならば、ナディールは神々が見捨てた闇の底であるが、神話的英雄は常にナディール側から現れると語られる。これは、後に「クロノ・フラワー・プロセス」の思想的原型となる伝承である。

「ナディール号」は、権力中枢から発進せず、正史に記録されない、勝利の象徴ではない船である。亡命者、異端者、歴史から削除された者、そして「故郷の星」に呼ばれた者だけを乗せる。そのため、銀河政府内部文書では「記録不能航宙体(Unregisterable Vessel)」という符号で呼ばれる。オリン・バーは、百科辞典データ移送艦の最終形にこの名を与えたのは、それが敗北の名ではなく、「誰も踏まずに反転できる」反転点の名であると語った。ミーターが乗るのは、彼が「英雄」ではなく「人類の残余を引き受ける存在」だからであり、ハニスが残るのは、ナディールは一隻で十分だからである。

ハニスは、連邦辞書編纂図書館が大規模改修される直前、そのオフィスに現れた。彼は本名で『ナディール』という本を求めたが、別の司書から「そんな本は所蔵していない」と告げられる。さらに、尋ねた「ドーラ」という人物についても、館員リストには存在しないと言われ、ハニスは困惑した。

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