第8話 待ち遠しいロブスターのクリーム煮
──『ミーターの大冒険・余白』より──
地球の午後は、すっかり落ち着いていた。空は蒼く澄み、遠くアルカディア農園の西側に広がる「みはらしの丘」では、風が古代種の草木のあいだを吹き抜けていた。
施設の中庭に備えられたベランダで、ジスカルド・ハニスは珍しく上機嫌な様子だった。白銀の髪に陽がきらめき、その目には年齢を超えた生気が宿っている。
「ハニスさん、本日もよい日和ですね?」
人工知性体の看護ユニット、ヴァレリー・バーは、変わらぬ丁寧な音声で彼に話しかけた。彼女のヴァーチャルな存在は、白いコートを纏った人間のように見えるが、実体は複雑なホログラムとマインドリンクで形成されている。
「ふふ . . . 」ハニスは、顔の筋肉を緩めたまま頷いた。「お察しのいいヴァーチャル女史。ちょっとした朗報があってね。それも、ふたつばかり。」
「ふたつも、ですか。ますます好兆ですね?」
ヴァレリーは穏やかに微笑んだ。
「その通りさ。まず第一に──ターミナスから市長が来られる。しかも、じきじきに、だ。」
「ターミナス市長 . . . それは星府の総元首たるお立場。しかも第1ファウンデーションの象徴的リーダー . . . まさか、イプセン・モルガン様ですか?」
ハニスは小さくうなずいた。
「彼が直接、地球まで来られる。ターミナスの者たちは、彼を『純粋なターミナス人』として扱っている。誰も彼が第2ファウンデーション出身だとは思い出さない。むしろ、忘れたがっているのかもしれないな。」
彼の声には、ある種の感慨が滲んでいた。長年の友でもあり、政治的な戦略家でもあるイプセン・モルガンへの深い敬意がそこにはあった。
「でもな、ヴァレリー君 . . . 」
彼はくいっと片眉を上げた。
「俺がこうしてニヤけているのは、政治の話じゃないんだよ。」
「へぇ、そうなんですか?」
「そうだ。彼の料理の腕前さ──あいつのつくるロブスターのクリーム煮は絶品なんだ。」
一瞬、風が止まり、時間がやわらかく流れる。ハニスは、過去の一夜を思い出していた。
「ペイリーさんと俺が、『レッドウォール事件』の一件でアルカディア家に凱旋した晩があったろう? その日の夜食が、まさに彼の手によるロブスターのクリーム煮だったんだ。あの料理 . . . あの夜 . . . あれは人生の最高の瞬間の一つだったよ。」
ベランダの彼方で、ホログラムの「みはらしの丘」が輝いた。そこではアルカディア農園の風景が、人工的な再現とは思えぬほど精緻に描かれていた。
ヴァレリーは、軽く首をかしげた。
「残念ながら、私は味覚ユニットを持たないヴァーチャルですから、それを味わうことはかないませんが . . . 」
そして、彼女の目が冴えた光を帯びた。
「さて、天下の名物料理人──もとい、ターミナスの市長であるイプセン・モルガン様が、なぜ地球に? その目的とは?」
ハニスはしばらくのあいだ沈黙した。
風が再び草原を撫でる。彼の表情には、次の言葉を選ぶ慎重さと、かすかな愉悦が混じっていた。
「──To be continued」
※「レッドウォール事件」およびイプセン・モルガンの料理にまつわる詳しい経緯は、フェイスブック・グループ《Asimov World》第198話「ロブスターのクリーム煮」をご参照ください。



コメント