蘇我氏の正体51 藤原鎌足の出自について。
歴史学者の吉田大洋氏はその著書「謎の出雲帝国/徳間書店」の中で、「藤原鎌足は中国人ではなかったか?」という仮説を提唱し、その論拠をいくつも列挙しています。いわく、
①鎌足の祖先である中臣氏は大陸系の亀トを職としていた。
②香川県大川郡にある志度寺の縁起と縁起絵図(海女の珠とり伝説)によると、藤原不比等の娘のひとりは唐の国の高宗皇帝の后だという。
③鎌足の子である藤原不比等は壬申の乱のときに、漢王の後裔だという田辺史(ふひと)に預けられていた。彼の名前は史からもらったもので、幼名をカラコと言い、蘇我氏についていた。
④秦の始皇帝の末裔である秦氏と、藤原氏は数多くの婚姻を結んでおり、藤原氏は秦氏由来の寺社も厚遇している。
⑤藤原氏は中国文化と思想の流入につとめ、五節句をはじめとするもろもろの年中行事をも取り入れ、それを従来の行事に当てはめていた。
・・・等々、吉田氏はほかにもいくつかの論拠を出しているのですが、中でも目を引くのが②で、これは物証でもあることから、かなり説得力があります。
②が真実であれば、鎌足は唐の皇帝に后を出すことができるほどの高い身分であったことになり、その出自は唐の高官、ということになるでしょう。
・・・もとより鎌足の出自は謎に包まれております。彼は鹿島神宮の神官の家の出身と言われていますが、百済僧の智積という人物に比定する説やその他の人物に比定する説もあり、真実ははっきりしません。
彼の父である中臣御食子は義父であり、鎌足の本当の父ではありません。つまり、鎌足は中臣家に「背乗り」した人物であり、中臣家とは血のつながりがないのです。
しかしながら、彼の一生の行跡を俯瞰してみますと、彼は極めて頭の回転の速い人物であり、冷徹な利害計算のもとに数々の権謀術数をめぐらし、下級役人の身分から徐々に身を起こし、自分よりはるか高位の人物を手のひらで転がすように動かし、ついには国の最高官位である大識冠にまで上り詰めています。
彼の行ったことの善悪は別にして、一人の人間が出世を夢見て一生頑張り続けた場合、彼ほどの成果を自力で勝ち得た人物は歴史全体を俯瞰しても稀有な存在と言えましょう。
彼の行った策略には、乙巳の変における蘇我蝦夷・入鹿親子の謀殺なども含まれます。
その蘇我氏は鎌足に対してなんら害をなすようなことをしていないにもかかわらず、鎌足は自らの立身出世のために蘇我氏を殺害するという悪辣極まりない行動を行いました。
こういう面からも、鎌足は日本人ではなかったのではないか?と私には思われるのです。
こういう人物は日本の歴史にはほとんど登場しません。こういうことをやる人間は大陸の出身で、大陸ゆえに常に多くの敵国に囲まれており、油断するといつ自分の首が搔き切られるかわからない、という状況下で長年暮らしてきた人だけに身につく行動特性だと思えるのです。
では、鎌足について、一般的に語られている素性について確認して行きましょう。
ウイキペディアによりますと、鎌足の父は中臣御食子。母は大伴智仙娘。
これが事実であれば、鎌足の両親はどちらも大臣クラスの名家の人であり、鎌足もまた高貴な出自であると言えます。
が、先述しました通り。御食子は鎌足の義父であり、鎌足は中臣家の出身ではありません。
母親の大伴智仙娘のほうは大伴金村の娘という説もあり、だとすれば鎌足はたいへんな大物なのですが、これを素直に信じるべきなのかどうか?・・・。「興福寺縁起」では鎌足の母は「鏡王女」となっています。
「藤氏花伝」によりますと、鎌足の出生地は大和国高市郡藤原。これにも異説があり、大和国大原、あるいは常陸国鹿島とする説もあります。高市郡藤原は現在の橿原市。大和国大原は現在の明日香村。いずれも当時の一等地であり、この地を出生地としたのは鎌足に箔をつけるための作為のように思えます。
記紀の編纂を指揮したのが鎌足の息子である不比等であることを考えますと、不比等が真実を知らなかったとは考えにくく、 むしろ、鎌足の両親も出生地も、公表できないほどに正統からかけ離れていて、そのため、作ったようなウソを並べて記紀に書かざるを得なかった、と考えたほうが自然な気がします。
それともうひとつ、鎌足が中国出身であることを示唆する重要な史実があります。
それは鎌足の長男である真人が、定恵という僧名で出家し、留学僧として唐に渡っていることです。
しかも、定恵が師としてついたのは、神泰法師という、玄奘の愛弟子であった高僧でした。
辺境の日本から来た僧がこの高僧の下で学ぶためには、かなり強力な中国コネクションが必要だったことでしょう。
そのコネクション構築の場として唯一考えられるのが、南淵請安です。
請安は留学僧として隋から唐にかけての32年間、かの国に滞在していました。彼は日本に帰国後私塾を開き、若き日の鎌足は門下生となっています。鎌足は極めて優秀な学徒だったようですが、果たしてこのくらいのコネで何がやれるのか?という気もします。
また、定恵が鎌足の長男であることにも注意が必要です。
本来なら藤原家の後継者になるはずの長男が唐に留学し、次男であった不比等が藤原家を継いでいるということの不思議さ・・・。
これについては「定恵は鎌足の実子ではなかった」という説もあり、この説にまた、かなりな量の状況証拠がついており、これはこれで重要な論争となっています。
ただ、確実に言えるのは、唐との間に白村江の戦という大戦争が起きたこの時代、敵対しかけていた唐に留学生を送り込むという離れ業をやれるのは、鎌足以外になかった、ということです。
果たして、鎌足はどこの出身で、何人だったのでしょうか?
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