蘇我氏の正体㊿ 継体天皇は蘇我氏の王である。
継体天皇は歴代の天皇の中でも極めて謎の多い人物です。
記紀においてこの大王は応神帝の五世孫と記されていますが、これを疑う説も多々あり、継体帝の出自は謎に包まれています。
もっとも、記紀の記述が必ずしもウソとまでは言い切れません。
応神天皇の子供は26人いたと言われていますし、また、その少し前の景行天皇には80人もの子供がいたという伝承もあります。
こうした子供たちは一部の皇位継承者を除いては地方の豪族と縁組し、ヤマト王権の基盤を強力なものにするために地方の代官として派遣されたと思われ、継体帝の出身地である越前(もしくは近江)国にもヤマトの大王の血を引く豪族たちがたくさんいたと思われるからです。継体帝はそうした豪族の一人だったのかもしれません。
継体帝の本名はオホド大王。この呼称は他文献でも一致しますので、この名前は確実と言えそうです。
継体帝がそれまでのヤマトの大王家とはまったく血縁のない他国の王家出身者であるという説も多々ありますが、その中でもひときわ興味を引くのが斉木雲州説です。
斉木氏によりますと、武内宿禰の末裔であった若長という人物が越前の国造となりました。これが日本における蘇我氏の発祥です。
斉木氏によりますと、オホド大王は出雲国の王家の生まれ。成人して蘇我氏の本宗家を継ぐために婿入りし、北陸の蘇我王国の当主となりました。
北陸の蘇我家と出雲王家の富家は親戚でした。長年にわたってお互いに嫁・婿をもらいあう間柄だったようです。
ある時、蘇我家に嫡男が育たず、娘ばかりになったので、富家から養子をもらったのがオホド大王でした。
オホド大王の頃、蘇我家は糸魚川から採れる翡翠の利権を掌握しており、さらに日本海から朝鮮半島への交易を通じて莫大な資産を蓄えていました。
さらにこの時期、蘇我家の親族が額田国造家、三野国造家等にもいて、そのうえ周辺の若狭国や加宣国と同盟し、これらの地域は「蘇我王国」と呼ばれていました。現在の新潟、富山、石川、福井、そして岐阜県と滋賀県の北半分に相当する広大な地域です。
オホド大王はこの広い王国のあるじとして迎えられたのでした。さらに、彼の出身は出雲王国。蘇我王国と合わせると本州の日本海側のほとんどの地域を支配していたわけです。
この斉木説を信じる形で私なりの推論を進めてみます。
その頃のヤマト王権がどのような状況だったかといいますと、仁賢、武烈という大王が相次いで没し、地方領地の権力を守る力が衰えていました。
この王朝は仁徳天皇に始まる「大雀王朝」だったと思われますが、武烈帝が後継者を残さないまま死んだので、記紀は「史記」に登場する殷の紂王の悪事の記述を真似て武烈帝の悪口を並べ、そのために国が衰えたという欺瞞の説明をしているようです。
武烈帝の是非に関わらず、当時のヤマト王権は国体がボロボロで、国を維持するのがやっと、という状態だったと思われます。もしも蘇我・出雲連合から攻められたらひとたまりもなく、ヤマトは蘇我家から大王を迎え入れることで延命を図ろうとしたのでしょう。
これは見方によっては国を差し出すのに等しい行為ですが、このことを悟られるよう、書紀は入念にウソを塗り固めたのだと思われます。
ヤマトからオホド大王に就任の要請をしたのは大伴金村と巨勢男人でした。
大伴金村は阿羅伽耶王家の出身でしたが、巨勢男人とはどういう人物だったのでしょうか?
巨勢家は蘇我家と同じく、武内宿禰を始祖とする家柄です。この意味で巨勢家と蘇我家は遠い親戚筋にあたるのですが、この時代に巨勢家は蘇我家と縁組し、男人は蘇我稲目を養子に迎えています。
また、巨勢家は古くは「許勢家」と書いていたようです。
この文字を見て皆様、なにか思い出しませんでしょうか?
そう、この「許」という文字は金官伽耶国初代王妃・許黄玉に通じる名前なのです。
巨勢家はどこかで金官伽耶国と通婚し、許家の血が入ったことから「許勢」の名前を名のることになったと考えられるのです。
このことは非常に重要です。なぜなら、許黄玉は釈迦族の女性でした。つまり、日本に許勢家が誕生した時点で、釈迦族が日本に渡来したことになるからです。
ところで斉木氏は、蘇我稲目は北陸の蘇我家とは遠縁にあたる、ヤマトの石川家の人であり、親戚とはいっても250年くらい離れて暮らしているので、もはや別の家である、と言っています。斉木氏によると蘇我稲目から馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我家の大臣たちはすべて本名は石川姓であり、名前も違っていた、ということです。
斉木氏の説を信じるとすると、この時代の記紀の記述(特に日本書紀)は最初から大嘘を書いていることになります。特に蘇我馬子、蝦夷、入鹿という人物が実際にはいなかったとなると、この頃の歴史は根底から考え直さないといけません。
にわかにはなかなか信じがたいのですが、斉木氏の説明には空想では書けない具体性があり、記紀がウソを書かなければならなかった理由もだいたいわかるものです。
今回の稿をまとめますと、
大雀王朝が武烈大王を最後に男子の血統が絶え、ヤマト国は北陸の蘇我王国からオホド大王を王に迎えた。オホド大王は出雲王国の血を引いており、出雲、蘇我の両王国を従えることができた。この両国の軍事力と経済力をバックにヤマト国は復活した。
オホド大王を擁立したのは阿羅伽耶国王室の血を引く大伴金村と、金官伽耶国の血を引く巨勢男人である。巨勢男人は大臣の位にあったが、男児がいなかったので石川家から養子をもらって大臣にした。これが蘇我稲目である。
蘇我稲目から馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたって蘇我家は大臣を輩出、ヤマト国は蘇我氏の時代となる。しかしながらこの蘇我氏の本名は石川氏で、北陸の蘇我氏とは異なる。
・・・日本書紀というという書物には作り事が非常に多く記述されていますが、それらはいずれもまったくの架空事というわけではなく、歴史の事実が巧妙に置き換えられる形で記述されています。
なぜ日本書紀が石川臣を蘇我臣と書き替えたか? それは、オホド大王、すなわち継体天皇が蘇我家の頭領であったからでしょう。この時代は蘇我王権であったわけですが、そのことを公にできないため、この時代の大臣の名前を蘇我としたわけです。
なんとも手の込んだ改竄ですが、わかる人には真実の糸が手繰れるように、時代の真実を匂わせるように、重要な情報の位置を少しだけずらして見せているのです。
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