蘇我氏の正体㊾ 任那四県割譲事件の真相。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㊾ 任那四県割譲事件の真相。

蘇我氏の名前が日本書紀にちらほらと登場する直前の時期、「任那四県割譲事件」という事件が起こります。
これは、朝鮮半島南西部の百済寄りの四県を、百済が日本に割譲を求めてきたことに対し、大伴金村という人物が継体天皇に諮ってそれを認めた、ということになっている事件で、無償で百済に任那の四県を割譲した行為に対して日本には大伴金村を良く思わない勢力が台頭し、最終的には「金村は百済から賄賂をもらっていた」と讒言されて失脚しています。

ただし、これは日本書紀の記述であり、この時代あたりからの日本書紀の記述はまったく信用が置けないものが多いので、この記述を鵜呑みにするわけには行きません。
では、「任那四県」とは具体的にどのあたりを指すのでしょうか?

図1をご覧ください。その場所は朝鮮半島南西部。このあたりが任那(伽耶)地方の範疇に入っていたかどうか?・・・資料によってはこの地域を任那に繰り入れているものもありますが、実質的に日本が占領統治していたかというと、それはなかったと思われます。
もともと「任那」とは伽耶諸国のことで、日本では伽耶諸国のことを任那地方と呼んでいました。しかし、伽耶諸国の中にこの「任那四県」は入っておりません。つまり、この地域は百済が占領統治するまでは都市国家の林立した地域で、具体的にどの国の版図とは決まっていなかった可能性が高いのです。
これを「割譲した」と言い張るのは、この時代のヤマト王権の勢力を実際以上に大きく見せかけようとした、日本書紀の欺瞞というものでしょう。

また、仮にこの地域が日本の版図に入っていたとしても、その統治体制はかなり緩いもので、毎年朝貢を行えば自治を認めるというものでした。帰属先が日本であれ百済であれ、この地に居住している人々にとってはさほどの影響がなかったのです。
そして、この時代の日本がどんな時代であったかといいますと、当時は蘇我稲目の時代で、蘇我氏がヤマト政権の中枢において圧倒的な権勢を手に入れつつあった時期でした。

そして、図2をご覧ください。以前私が「蘇我氏の半島での本拠地は木浦地方」と書いたことを覚えておられますでしょうか? その場所は「任那四県」のすぐそばにあります。
つまり、「任那四県」は蘇我氏の支配下にあった可能性が高いのです。

次に、「大伴金村」という人物について調べてみます。このサイトの主宰者・堀哲也氏によりますと、大伴氏は阿羅伽耶国の王の家柄でした。
阿羅伽耶国とは伽耶諸国のひとつで、任那四県とは国境を接しており、金村はこの国の王族の出身だと思われます。彼の名前の中に金官伽耶国の王名である「金」がついていることから、この人物は金官伽耶国とも縁戚関係があると思われます。

つまり、大伴金村は阿羅伽耶国と金官伽耶国両方の血筋を引くサラブレッドだったわけです。このことが何を意味するかといいますと、金村はヤマト王権の指図を受けずに直接任那四県の帰属を決める権力を持っていた可能性がある、ということです。

金村の権勢の晩年、欽明天皇が即位しています。この欽明天皇にも「金」の字が含まれていることから、欽明天皇も金官伽耶国の王室の血を引く人物と思われます。金村と欽明天皇は、当時衰弱していつ滅びるともわからなかった金官伽耶国を脱出し、その血をヤマト王権の中に残そうと考えていたのかもしれません。そして、この大プロジェクトに深く関与していたのが蘇我氏だと思われます。

蘇我氏の先祖にあたる木浦(木刕)氏は、蘇我満智の時代から日本書紀に何人か登場してきます。つまり、蘇我氏は満智の時代から百済の外交官として日本とのパイプ役を務めていたわけで、百済が任那四県の割譲を求めてきたときも、蘇我氏から連絡があったものと思われます。

百済という国は、この四県割譲事件の後、高句麗に攻められて、首都ソウルなど国土の半分を失っています。国の存亡がかかっていたわけで、四県を完全な支配下に置かなければ戦いようもない状態でした。こうした状況を鑑みた蘇我稲目は自分の旧領地であった四県を百済に従属させ、百済を救おうとしたと思われます。そして、そのためには四県の一部を領有していた金村の了解が必要だったので、稲目は金村と協議の上で四県割譲を決めました。これが任那四県割譲事件の真相ではないかと私は考えます。

そしてもうひとつ、稲目と金村が四県割譲を決めた理由があります。それは、「日本への仏教普及のため」だと考えられるのです。

任那四県割譲事件(512年)のすぐあと、百済は返礼として日本に五経博士を送り、536年に蘇我稲目が大臣となった後、552年に百済は仏像と経典数巻を日本に送り、これが世にいう仏教公伝だとされています。
稲目と金村は協力して、任那四県の統治権という巨利を百済に与えることで、日本に仏教文化を導入するという「実」と取ったのでした。

ちなみに、大伴金村は大連として、527年に発生した磐井の乱を物部麁鹿火とともに鎮圧しています。日本書紀の文脈から見ますと金村が命令する形で麁鹿火の軍を動かしており、この時期、新参であったはずの大伴氏と古参の名族物部氏の間に早くも軋轢が生じている可能性があります。これがのちに蘇我対物部の大戦争である丁未の乱(587年)へと繋がって行くのですが、この事件の原因ははやはり仏教導入にありました。

大伴金村という人物は、その生涯中に武烈、継体、安閑、宣化、欽明の五帝の擁立に関わっています。このうち継体帝と欽明帝の二帝がとりわけ重要で、このときにヤマト王権の血筋は変わり、継体帝の時に出雲・蘇我王国の血を引く大王が、そして欽明帝の時に金官伽耶国の血筋を引く大王が誕生したと思われます。この二帝はそれまでのヤマト王権の大王の子孫の女性を王妃としていますので、家柄としては王権の血筋は途絶えていませんが、男系だけ見た場合は血筋が入れ替わっていると思われます。

ここで再び堀哲也氏の仮説を取り上げますと、大伴金村の祖先は阿羅伽耶国の王族、そしてその前は中国東北部に勢力を張った公孫氏が大伴氏のルーツでした。
公孫氏は中国に燕という国を建て、当時仏教を迫害していた秦や漢という王朝と対立し、金首露王のルーツであった「亀茲国の宅候」の末裔たちと協力し、南朝鮮に金官伽耶国を樹立し、釈迦族の末裔の女性・許黄玉を王妃として迎えることにより、極東の地に釈迦国を復活させた、というのが堀氏の説です。

それから時代が下がり、同じ南朝鮮に盤踞していた蘇我氏と大伴氏、そして金官伽耶国王家は政略結婚を繰り返し、同じ釈迦族として日本への仏教伝播を目指したと思われます。蘇我氏、大伴氏、金氏らはみな、釈迦族の血を引く一族だったわけです。

(図1の出典HP:https://kousin242.sakura.ne.jp/nakamata/ggg/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%99%82%E4%BB%A3/111-2/

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