蘇我氏の正体㊽ 天武天皇のほんとうの出自。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㊽ 天武天皇のほんとうの出自。

日本の歴史上初めて「天皇」を名のった天武天皇。天皇家の歴史は実質的にこの天皇の時から始まると言って良く、その意味でこのお方は歴代の天皇の中でも最も重要な人物の一人です。

しかしながらこの天皇の出自には大きな謎があります。日本書紀の記述には「天智天皇の同母弟」とありますが、これには様々な歴史学者から異論が出ており、大陸からやってきた異国の王室の出身である、という説が多く存在します(小林惠子他)。

さまざまな異説の中で私が支持したいのは、斉木雲州氏が「上宮太子と法隆寺」(大元出版)で提唱している「天武天皇は蘇我武蔵と息長家出身の宝姫の子である」という説です。
斉木氏によりますと、藤原鎌足の義父である中臣御食子が田村皇子をそそのかし、「大王になりたければまず宝姫と結婚し、息長氏を後ろ盾につけなさい」とアドバイスしました。
この策に乗った田村皇子は、すでに蘇我武蔵と結婚していて子供までもうけていた宝姫を強引に離縁させ、自分の妻としました。
息長氏はアメノヒボコを祖先とし、一族から神功皇后が輩出した氏族であり、当時も隠然たる勢力を持っていました。この時代は豪族たちによる談合で大王が決められる時代でしたので、息長氏の支持を取り付けることは多数派工作のための大きな意味があったのです。
そして目論見通り宝姫を妻とした田村皇子は、念願かなって大王となりました。この人が舒明天皇です。

この斉木氏の仮説は、実は日本書紀の記述と適合した部分があります。日本書紀には「天智天皇の同母弟」とありますので、これはつまり天智天皇と天武天皇は父親が違う、ということです。斉木説によりますと天智天皇と天武天皇は、母親は同じ宝姫(斉明天皇)ですが、天智天皇の父親は舒明天皇、天武天皇の父親は蘇我武蔵(後の蘇我日向)となり、日本書紀の記述と合致します。

そして私は以前、「斉明天皇は金庾信の妹・宝姫である」という仮説を提唱しました。

これは斉木氏の仮説と合致します。なぜなら息長氏は新羅の出身で、金庾信の母は新羅王室の血を引く萬明夫人。新羅王室は神功皇后を生んだ家柄でした。
神功皇后の父親の名前は息長宿禰王。そして神功皇后本人の諡号も息長足姫。つまり、彼らは息長家の人であり、斉明帝の頃に日本にいた息長氏一族は彼らの子孫だったのです。

神功皇后は三韓征伐を行って朝鮮半島の三国を日本に服属せしめた大王であり、その威光は斉明帝の時代にも衰えていませんでした。斉明帝は神功皇后の例に習って新羅から日本の王室へと縁組がなされたとも言えましょう。
そしてこの、天智帝と天武帝の出生の違い、父親が違うという事実が、その後の歴史に大きな影響をもたらします。具体的にいいますと、壬申の乱という戦争は天智帝と天武帝の父親が違うことから起こった、とも言えます。
天智帝には藤原鎌足というブレーンがつき、百済との関係を強めながら蘇我氏の力を徐々に弱めて行き、やがて蘇我氏系天皇の排斥に成功し、自らが大王となることに成功します。

しかしながら、天智帝と鎌足の成り上がり方というのは、自分たちのライバルである人物を次々に暗殺してのし上がって行く、というまことに陰湿なスタイルのものであったため、国中に多くの敵を作りました。また、自身が新羅系である息長氏のバックアップを得て政権の座についたのに、新羅の敵国であった百済との結びつきを強めたため、この意味でも多くの反感を買うことになりました。
天智帝と鎌足を敵視する勢力は徐々に大海人皇子(後の天武帝)につくようになり、天智帝の崩御後、壬申の乱が勃発します。

さて、ここで蘇我氏の外交スタンスについて検証しておかなければなりません。

以前の稿で私が提唱しました仮説では、蘇我氏はもともと百済国南西部にあった木浦地方の豪族で、百済王権の重臣として活躍していた一族です。
蘇我馬子の時代の仏教寺院建設時においても、馬子は百済から多くの仏教僧を招聘しており、一般的には蘇我氏は百済寄りの氏族であったと思われております。
しかしながら、蘇我氏の行動を注意深く見て行きますと、実は新羅との関係も浅からぬものが感じられ、むしろ新羅寄り、と思えるような行動も多く見られます。

おそらく、この時代の蘇我氏は百済、新羅の両国と姻戚関係を持っていたため、どちらか一方につくことはせず、両方と対等に交渉する、という両面外交政策を展開していたものと思われます。

ところが、百済国は当時、新羅国と長い抗争を繰り返しており、新羅に名将・金庾信が登場してからは徐々に新羅に追い詰められ、滅ぼされかけておりました。そのため百済は国の存亡をかけて、日本との同盟を図っておりました。日本の応援が得られなければ国が亡ぶのは必定、という状況だったのです。
そのため、百済に対して一定の距離を保とうとしていた蘇我氏に見切りをつけ、百済は中臣鎌足―中大兄皇子(後の天智帝)の勢力と結託したのでした。
鎌足はこうした百済の切羽詰まった状況をうまく利用して彼らの力を使い、打倒蘇我氏政権を果たしたのでした。

一方の蘇我氏は釈迦族の血を引く一族であり、自らも熱心な仏教徒であったために争いごとは好みませんでした。しかし、一族の首長である蘇我蝦夷・入鹿が殺され、政権を鎌足に乗っ取られるに及んでようやく反撃を開始します。その最初が蘇我日向(武蔵)の大宰府出向であり、次が白村江の(計画的な)敗戦、そしてそれが巡り巡って天智派と天武派の大戦争にまで発展したのが壬申の乱でした。

当時の人々は大海人皇子の本当の父親が蘇我日向であり、母親が新羅の宝姫であることを知っていたでしょう。この二人はいずれも釈迦族・金官伽耶王室の血を引いています。
そして、壬申の乱勃発時にはすでに新羅が朝鮮半島を統一しており、百済の遺臣たちの勢力をバックにしていた天智帝の力には陰りが見えていました。このような情勢の下、ヤマトの豪族たちの大半は大海人皇子側につき、壬申の乱は大海人皇子の大勝利で終わるのでした。
これは釈迦族政権の復活であり、同時に蘇我政権の復活でもあります。

が、この復活政権もまた、あまり長くは続きませんでした。
天武天皇即位後も天智派と天武派の抗争は続き、770年に天智帝の孫にあたる光仁天皇が即位するに及んで天智派は政権を取り戻します。
この間、双方は政略結婚を繰り返し、血筋的には交合してしまうのですが、その中に巧みに自分たちの血脈を入れた藤原氏により、天下は牛耳られるようになって行ったのでした。

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