蘇我氏の正体㊼ 金庾信の生涯の軌跡。 その2(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㊼ 金庾信の生涯の軌跡。 その2

 金庾信。新羅の名将であり、朝鮮半島の統一を成し遂げた英雄。
 そればかりか、白村江の戦いにおいては日本軍をも撃破し、一時は日本という国の命運をも掌中にしていた人物。
 しかし、金庾信は日本を支配することなく、新羅に引き上げています。彼にはどんな思惑があったのでしょうか?

 ここで皆様に思い出してほしいことがあります。それは、金庾信と欽明天皇は親族関係であった可能性が高い、ということです。
 欽明天皇は金官伽耶国最後の王・金仇衡と同一人物である、という説があることを以前ご紹介しました(鈴木武樹、他)。この説に従うなら、同じ金官伽耶国王室の血を引く金庾信は欽明天皇の曾孫、ということになるのです。

 これが真実だとしたら、金庾信にとって日本は父祖の治める母国のようなもの。対して新羅は自身の故郷である金官伽耶国を滅ぼした仇敵のような存在でした。新羅王室が金庾信を重用し深い縁戚関係を結んだため、金庾信は最後まで新羅の臣であり続けましたが、その出自や過去の因縁から考えますと、彼は新羅よりも日本のほうに親近感を感じていてもおかしくない人物だったのです。

 また、もうひとつ忘れてはならないことがあります。それは、白村江の戦いが起きる直前まで日本の大王であった斉明天皇は、金庾信の妹・宝姫であった可能性がある(こちらは私の新説です)ということです。

 斉明天皇は白村江の戦の二年前である661年、都を離れて九州・朝倉の地まで来ています。斉明帝はここで崩御するのですが、時の最高権力者であった大王がわざわざ自ら九州まで旅して来る理由が不明確です。
 しかし、彼女がもしも私の仮説通り、金庾信の実の妹であったとしたら、その謎は氷解します。
 つまり、斉明帝は、実の兄である金庾信と会うつもりだったのです。

 釈迦族の国である金官伽耶国王室出身の金庾信と斉明帝は蘇我氏と結託して、日本に仏教国家を樹立させ、仏教を興隆させるべく奔走してきました。
 その試みは半ば成功し、蘇我馬子の時代に日本は仏教寺院を建立、大陸から仏僧を招聘するなどして仏教国家の道を歩み始めておりました。
 しかし、この試みに対する反発も強く、丁未の乱では神道派と大戦争になり、乙巳の変では蘇我蝦夷・入鹿親子が殺されるという事態に発展します。

 乙巳の変以降、蘇我氏は徐々に中央勢力から疎外されて行き、やがて政権から遠く離れて行くのですが、白村江の戦の少し前、蘇我日向(馬子の孫、蝦夷の甥)は「大宰府の帥」という役職を得て九州に赴任しています。当時、この人事は「島流し」と揶揄されたらしいのですが、実は遠大なる大戦略の始まりであった、と私は考えます。

 おそらく、蘇我日向は斉明天皇と共謀して、金庾信との同盟を結んだのです。

 そして、白村江ではわざと大敗し、金庾信に畿内まで攻め込ませ、畿内の抵抗勢力を一掃し、蘇我氏の天下を復活させる、という戦略を描いていたのでした。

 これに対し、新羅と長年戦争を続けていた百済の勢力が機先を制しました。
 彼らは朝倉の地まで来ていた斉明帝を謀殺し、金庾信との同盟を阻止したのです。

 このあたりはすべて、私の空想に過ぎません。が、そう考えると斉明帝が朝倉で急死した意味もわかります。そして、蘇我日向がわざわざ官職を投げ捨てて九州まで赴いた理由も。

 金庾信は白村江の戦いで勝利した後、おそらく九州まで来ていたでしょう。しかし、そこにはすでに妹・宝姫はいませんでした。

 金庾信軍の総帥は、表向きには唐軍の大将である劉仁軌でしたが、唐軍は新羅から要請されて派遣された、いわば義理の軍勢であり、戦いが終わればさっさと母国に引き上げたかったことでしょう。
 いっぽう新羅軍のほうも百済を滅ぼしてから間もなく、高句麗の動きも不穏なものがあったため、日本に長く駐在することは難しい状況にありました。妹である斉明帝も亡くなり、同盟の理由もなくなってしまったため、早々に新羅に引き上げることになりました。
 こういう理由で日本は本土侵略の危機から逃れられたわけです。

 日本書紀によりますと、時代はその後、斉明天皇の子である天智天皇と天武天皇の兄弟が相争う展開になって行きますが、実はこの記述には非常に疑わしいものがあります。

 現代の日本の教科書にもそう書かれているのですが、このストーリーは日本書紀の記述をそのまま引用しただけのものであり、多くの歴史学者から、斉明帝と天智・天武の親子関係、および天智・天武の兄弟関係には疑問の声が上がっています。

 天智天皇のほうは百済系勢力をバックとした一族であることは間違いないと思われるのですが、問題は天武天皇のほうです。

 天武天皇の正体については様々な説があり、大陸から来た別王朝の末裔であるとも言われています(小林惠子他)。

 しかし私はここで、斉木雲州氏が「上宮太子と法隆寺」という本で発表した、「天武天皇は蘇我日向の息子である」という説を採りたいと思います。
 なぜなら、こう考えたときに最もその後の歴史展開がしっくりと流れるように理解でき、壬申の乱が起こった経緯や天武天皇の行った政策の理由が納得できるようになるからです。

 この仮説に加え、もし、斉木氏の「天武天皇は蘇我日向と宝姫の子である」という仮説が正しければ、天武天皇もまた釈迦族の血を引く人物であり、この天皇の即位によって日本に釈迦族の王国が復活した、ということになります。

 このことを、日本最初の釈迦族王朝から少し長期的な視点で俯瞰してみましょう。

まず、天孫ニニギの降臨によって初めて釈迦族が日本に渡来し、皇室の祖となります。

 その後、大王家の血統は何度か入れ替わりますが、欽明天皇の時代に再び金官伽耶国から釈迦族の血を引く金仇衡(欽明天皇)が渡来して来て日本の大王となり、釈迦族の王権が復活します。

 そのあとは釈迦族王族対百済王族の戦いとなり、血筋が複雑に入り交じりますが、天武天皇の代になってはっきりと釈迦族王権が復活、その後は比較的信用できる系図となり、現代まで釈迦族の血統が皇室に残る、ということになります。

 天武天皇の出自については、改めて次回、掘り下げてみたいと思います。

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