蘇我氏の正体㊻ 金庾信の生涯の軌跡。 その1
新羅の名将・金庾信。この人の活躍により、一時滅びかかっていた新羅は息を吹き返し、最後は朝鮮半島を統一するまでになるのですが、この金庾信の生涯を、日本、そして蘇我氏との関係の中で見て行きましょう。
金庾信が生まれる67年前の528年、新羅の法興王は仏教を公認し、周囲の大反対に遭いながらも興輪寺や永興寺などを造営、殺生を禁じるなどの仏教政策を採ります。
新羅が仏教国になったのは法興王の時からで、この王は新羅における仏教興隆の大功労者です。
法興王は同時に弱体化していた伽耶諸国を滅ぼすのですが、伽耶の遺臣は厚遇し、金庾信の曾祖父である金仇亥に金官伽耶国の本領を安堵したうえ、王に任じています。
金庾信は595年生まれ。蘇我蝦夷より9年ほど遅い出生でした。当時の日本は蝦夷の父である蘇我馬子の全盛期。587年に丁未の乱という、蘇我対物部の大戦争が起こっており、仏教推進派と廃仏派の対立が前面衝突にまで発展した時期でした。
この戦争に勝利した馬子は588年、善信尼らを百済に留学させ、この頃飛鳥寺を建立、この飛鳥寺の初代寺司に馬子の息子・蘇我善徳が就いています。
591年、崇峻天皇は任那復興のために兵を筑紫に送り、新羅に問責の使者を送ります。
この時、崇峻帝と馬子の間で何かあったようで、翌年、馬子は崇峻帝を殺害します。
日本書紀に書かれたこの事件は真実であったのかどうか怪しいと思われるのですが、もし真実であったとすると、馬子は釈迦族の伝統である女系相続を復活させるために崇峻帝を殺したとも考えられます。次の天皇として馬子が推した推古天皇は我が国初の女帝であり、馬子の姪でもありました。
612年、馬子は自分の姉である堅塩媛を欽明天皇陵に合葬、堅塩媛が正当な欽明天皇の后であることを宣言し、臣下の序列のトップに自らを据えます。
623年、馬子は新羅の調(貢物)を催促するため、数万の軍勢を新羅に派遣します。
この時金庾信は28歳ですが、まだ歴史の表舞台には出ておらず、花郎と呼ばれる国王親衛隊の中にいました。
新羅は日本と戦うことなく朝貢したため、金庾信も戦闘を行っておりません。
626年、馬子が死去します。
そして645年、乙巳の変が起こります。日本書紀によりますとこの政変で蘇我蝦夷と入鹿親子は殺され、蘇我氏本宗家が滅びるという大事件が起こります。
これに歩調を合わせるかのように、同じ645年、新羅でも毗曇(ピダム)という人物が大上等という最高位の官職に就いています。
毗曇は時の善徳女王に反逆し、647年に女帝廃止を求めて反乱を起こすのですが、この反乱の起こり方のいきさつが乙巳の変とそっくりで、大須賀あきら氏は「どちらかがどちらかのペースト」であると主張しています。つまり、乙巳の変と毗曇の乱の少なくともどちらかひとつは起こっておらず、架空の物語だというのです。
乙巳の変を日本史の授業で必死に学んだ我々としましては、それが起こっていなかったと言われてもにわかに信じることは難しいのですが、この時期の日本書紀の記述というのは調べれば調べるほど信ぴょう性に乏しく、乙巳の変の実在性も極めて怪しい、と言わざるを得ません。どちらがウソを書いているのかというと、両方がウソである可能性が高い、と考えています。
ところで、大須賀氏によりますと、毗曇という名前はパーリ語でAbhidhamma(アビダルマ)と書かれ、これは仏教の教説を意味する言葉だそうです。この名前を持つ人物は当然仏教徒であったと思われるのですが、一方で人名としては違和感のある名前でもあり、本当に人名であったのか疑わしいとも思われます。また、仮にこれが出家した僧の法号だとしても教説という言葉をそのまま法号にするものなのか?という疑問が湧きます。
つまり、毗曇の乱という出来事もまた、本当にあったものなのかどうか、極めて疑わしいところがあるのです。作者がこの頃、仏教に関する騒乱があったことを暗示的に示しているだけではないか?という気もします。
乙巳の変も毗曇の乱も、蹴鞠の会で靴の脱げた王に臣下が靴を拾って差し出した、という運命の出会いから物語が始まっています。どちらかがどちらかの型紙を拝借して架空の物語を作っていることは間違いないのですが、果たして本物はどちらなのでしょうか?
ここで私が思い出すのは、「善徳女王は蘇我善徳だったのではないか?」という疑念です。
善徳女王は生年不明ながら、国王就任は632年。588年に飛鳥寺の寺司になった蘇我善徳がまだ20歳くらいの若者だったとすると、64歳で新羅王となっていたことになり、なんとかつじつまは合います。また、飛鳥寺の創建はもっとずっと後だったという説もありますので、それが事実ならこの説に、より整合性が出てきます。
蘇我善徳の名前が日本書紀に登場するのは1回きりで、以降、なぜか記述がまったくなくなります。この人物は蘇我蝦夷より年上で、馬子の長男(あるいは長女)であったと考えられますので、次子である蝦夷が蘇我家の家督を継いで大臣になっていることを考えますと、ほかにそれよりもよほど重要なポストがあったため、という理由を考えざるを得ません。
そのポストとは、すなわち「新羅王」というポストではなかったか?・・・
つまり、この時期の馬子は、日本で推古天皇を、そして新羅で善徳女王を擁立し、二国同時に女系相続社会を実現させようとしていたのではないか?と思えるのです。
すべては女系相続制度を持っていた釈迦国の復活のため・・・。
そして毗曇の乱は、仏教徒が起こした反乱ではなく、廃仏派が起こした反乱であり、首謀者の毗曇という名前は偽名で、実はこの名前に全く似つかわしくない、仏教を心から憎んでいた人物による反乱だったのではないか?という気がするのです。
この時期、百済が高句麗と同盟を結んだことにより、新羅は窮地に立たされていました。
新羅は唐と手を結ぶことでこの窮地から脱しようとしますが、この時期の唐は仏教を弾圧しており、新羅の国王が仏教徒だったのでは唐の応援が得られにくい状況でした。
実際、この時期の新羅からの救援要請に対して、唐は「善徳女王を排し、唐から新王を迎えること」という条件をつけています。毗曇の乱はこの条件に対して国内の対案が真っ二つに割れたことによって生じたものですが、表向きには「女帝はよろしからず」として毗曇が反旗を翻したことになっていますが、実際には女帝ではなく「仏教徒の帝はよろしからず」として起こった反乱が毗曇の乱の実態ではないか?と、私は考えています。
仏教はこうして、各地に伝播して息づく前に、大変な迫害を受け、多くの受難者を生みながら、多くの人々の犠牲の上に伝わってきたのでした。それはキリスト教の歴史とも重なります。新しい宗教というものは必ずそれまでの宗教の崇拝者から迫害を受ける運命にあるようです。
(写真は韓流ドラマ「善徳女王」の1シーン。左側が金庾信役のオム・テウン)。
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