蘇我氏の正体㊺ 釈迦族の英雄・金庾信。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿
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蘇我氏の正体㊺ 釈迦族の英雄・金庾信。

蘇我馬子が推古天皇を擁立し、日本で蘇我氏が全盛時代を迎えた頃、新羅国に一人の英雄が誕生します。その名は金庾信(キム・ユシン:595~673年)。

金庾信は金官伽耶国の初代・首露王とその王妃・許黄玉の直系の子孫。許黄玉が釈迦族の血を引く女性であったことから、この金庾信もまた釈迦族の血を引いていることになります。

また、この人物は金官伽耶国最後の王である仇衡王の曾孫にあたります。ここが重要なところで、前回私がご紹介しました「仇衡王=欽明天皇説」がもしも真実であったならば、金庾信は欽明天皇の曾孫ということになるのです。

さらに、金庾信の母は新羅国第24代国王・真興王の弟の娘。
つまり、彼は金官伽耶国と新羅国両方の王室の血を引くサラブレッドだったわけです。

同時に彼は新羅の将軍として、戦っては必ず勝つという不敗の名将でありました。

金庾信の存命中、新羅国は高句麗国や百済国との抗争を繰り返し、また、任那の覇権をめぐって日本とも紛争するという戦乱の時代にありました。
相次ぐ戦争に国力が疲弊する中、新羅という国はひとえに金庾信の飛抜けた軍事的才腕をもって国体を維持していたとも言え、さらに彼は政治手腕においても並ぶもののない策略家でもありました。
彼は最終的に百済国と高句麗国を滅ぼし、新羅国による朝鮮半島統一を成し遂げます。

のみならず彼は、どうやら日本の政治体制までを塗り替えているようなのです。
 このことを指摘している文献は私の知る限り見当たりませんが、彼は蘇我氏とも繋がっており、蘇我氏と結託して日本の政治体制を動かしていたようなのです。

あの白村江の戦いの時、唐・新羅連合軍の総司令官だったのが金庾信でした。
戦いに勝利した後、金庾信は九州に上陸し、戦勝国として日本を統治しながらも、日本が唐の属国にならないよう、独立を保った状態で唐軍を引き上げさせています。
その意味で金庾信は日本にとっても恩人とも言える存在なのですが、なぜ彼が日本のためにいろいろと奔走したのか? 彼が日本の政治体制にどのように影響して行ったのか? そして彼と蘇我氏はどういう関係だったのか?ということを、彼の若い頃から順に見て行きましょう。

まず、蘇我氏のほうですが、蘇我氏と新羅の関係は、蘇我氏の祖先である葛城襲津彦が任那に遠征して新羅と戦った時、新羅から美女二人を送られたことから始まります。
この美女二人が新羅王室の人だったかどうかはわかりませんが、ここで葛城家(後の蘇我家)と新羅との血のつながりが発生しています。

また、日本書紀には、木羅斤資という百済の将が新羅を討った際、新羅から貢女を受けて自分の妻とし、生まれてきた子供が木満致であり、この木満致が蘇我満智であるという説があります。この説が真実なら、この時にも新羅人の血統が蘇我氏の中に入っていることになります。
蘇我馬子は満智の四世孫ですので、新羅人は全盛期の蘇我氏の祖先の一派、ということになります。

蘇我氏が稲目の時代に台頭してきた理由の一つには、蘇我氏がこうして百済、新羅、伽耶国のすべてと縁戚関係にあり、これらの国との外交能力が極めて高かった、ということが挙げられると思われるのですが、推理をさらに進めて行くと、蘇我氏と金庾信の間にはさまざまな秘密の取引があり、それが歴史を動かして行ったと考えられる事件がいくつもあるのです。
その中でも特筆すべきは、新羅における善徳女王の即位です。

善徳女王は新羅史上初の女帝として有名な人ですが、この人物は日本にいた蘇我善徳ではなかったか?と私は考えています。
蘇我善徳は蘇我馬子の長男であり、飛鳥寺の寺司となったとだけ日本書紀に書かれています。しかし、善徳は長男であり、兄を差し置いて弟の蝦夷が蘇我家の家督を相続するのは不自然です。善徳が家督を継がなかった理由はおそらく、彼が新羅王家の家督を相続したからではないかと私は考えるのです。
日本書紀には蘇我善徳が男であったという記述はありませんので、女であった可能性も否定できません。

釈迦族の血を引く蘇我氏は、釈迦族の伝統である「女系相続」の形態を復活させようとしていました。そして、まず593年に日本で初の女帝となる推古天皇を即位させ、次いで632年、新羅で善徳女王を即位させたのです。(あくまでも私の想像ですが)。

少し時代が進んで645年、日本書紀では「乙巳の変」が発生し、蘇我蝦夷、入鹿親子が死亡、蘇我本宗家は滅亡したことになっています。
この記述自体には信ぴょう性が乏しいのですが、これを契機として蘇我氏一族は中央政界から徐々に排除されて行ったことは事実で、649年、馬子の孫であった蘇我倉山田石川麻呂が征伐され、その兄弟の蘇我日向は大宰府の帥として左遷されています。

が、この「蘇我日向左遷事件」が、傍目とは違って要注意の出来事なのです。なぜなら、彼が大宰府に赴いて14年後の663年に白村江の戦いが起こっているのですから。
もしも蘇我日向が、一族を次々に惨殺された恨みを胸に自ら大宰府行きを志願し、朝廷は厄介払いの好機とみて喜んで日向を送り出したのだとしたら・・・。

蘇我日向は金庾信と連絡を取りあい、藤原勢力に固められた日本軍が負けるような布陣を意図的に行い、金庾信と共謀のもとに白村江の戦いを起こしたのだとしたら?・・・。
・・・すべては私の仮説に過ぎませんが、このような歴史もあるいはあったのかもしれないと私は考えています。

さらにもうひとつ、重要な嫌疑があります。それは、皇極(斉明)天皇の幼少時の名前が宝姫であり、これは金庾信の妹と同じ名前だということです。
つまり、蘇我氏はここでも金庾信と結託して、釈迦族の娘を日本の大王とし、釈迦王国を復活させようとし、同時に伝統の女系相続をも蘇らせようとした、とも考えられるのです。

福岡県朝倉市の斉明天皇陵には、新羅の王室で使われていたものと同じ漏刻(ろうこく)という水時計が置かれています。私にはこれが斉明帝の出自を暗示しているもののように思われて仕方がないのです。もしかしたら斉明天皇は金庾信の妹・宝姫だったのかもしれません。

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