蘇我氏の正体㊹ 蘇我稲目は大王の血統を正統に戻した。
記紀に書かれている歴代天皇の系譜は萬世一系のように書かれています。
実際に、天皇家は歴史上、一度も滅んだことはなく、「家」としての存在は連綿として続いています。二千年以上前に誕生していながら一度も滅んでいない家というのは世界でも稀有な存在で、国家君主の家としてはおそらく日本の天皇家だけだと思われます。
しかしながら、記紀の系譜には多分に作為的なものがあり、「家」としては存続していても、「血統」のほうは何度か入れ替わっているのではないか?と思える箇所があります。
蘇我氏が台頭し始めた5世紀半ば頃、継体天皇の時も、血統が存続したかどうか怪しいところがあります。
記紀によれば継体天皇は応神天皇の五世孫とされていますが、これだけでもかなり遠縁となる上、継体帝の出身地がヤマトからかなり遠い越前、あるいは近江と書かれているので、本当に縁者だったのか疑う声も多く上がっています。
(もっとも、数代前の景行天皇等は100人以上の子供がいたとされ、子供たちの多くが地方行政官として派遣されたと考えれば、あり得ない話ではないのですが・・・)。
斉木雲州著「出雲と蘇我王国」(大元出版)によりますと、継体帝の本名はオホド大王といい、出雲王国の出身で、北陸の国造だった蘇我家の養子として迎えられた人物だということです。
つまり、斉木説によれば、継体帝はそれまでのヤマトの大王(天皇)家とは縁もゆかりもない人物だった、ということになります。
そんな継体帝がどうしてヤマトの大王として招聘されたのか?といいますと、実はこの時、ヤマトでは大変な事態が発生していたようなのです。
「三国史記」百済本紀によれば、「531年、倭国では天皇・太子・皇子みな死す。」とあり、この記述が真実なら、この時にヤマトの大王家の血筋は断絶したと思われるのです。
このため、遠縁でも良いので大王家の血縁者を探して王位に就かせる必要が生じました。
継体帝の生年は450年頃と思われ、531年にはかなりな高齢になっていますが、彼はさまざまな紆余曲折を経ながらヤマトに向かい、晩年になってようやく即位したようです。
斉木雲州氏によりますと、当時の蘇我家は北陸一帯を支配していた国造家で、その版図は現在の新潟県、富山県、石川県、福井県、および滋賀県と岐阜県の北半分までをも占有する広大な蘇我王国を築いていました。その版図はヤマトより広かった可能性もあります。
また、蘇我家は出雲王家と婚姻を繰り返し、出雲国とはたいへん親密な間柄でした。
オホド大王は出雲王家の出身ですが、蘇我氏の後継者として蘇我王国に婿入りした人物でもあったので、出雲王国と蘇我王国のどちらをも動かす力を持っていました。
その力は、当時のヤマト王権を凌ぐほどのものであったと思われます。
こうした状況下でヤマト王権がオホド大王を国主として迎えた、という事実は、実質的には招聘というよりは降伏に近く、出雲・蘇我連合軍と戦って滅ぼされるよりは、オホド大王を迎えて国の存続を図ったほうがまし、という考えだったと思われます。
この「オホド大王のヤマト王家相続(もしくは乗っ取り)」という大戦略を操っていたのが、ほかならぬ蘇我氏だったと思えるのです。
蘇我氏はそれまでに、蘇我満智、韓子、高麗といった人物をヤマト王権内に送り込んでいましたが、高麗の子の稲目の代になって、いよいよ臣下として最高位の「大臣」に昇りつめます。
稲目は二人の娘を継体帝の后として嫁がせ、大王家の外戚として確固たる地位を築くのですが、この時代の蘇我氏の実態が斉木氏の説の通りであれば、もともと北陸の蘇我家の本宗家の後継者であったオホド大王にヤマトの蘇我家(分家であったでしょう)が縁組しただけの話で、なぜ稲目が自分の娘と大王を縁組させることができたのか?という謎も解けることになります。
オホド大王は出雲王家の人でありながら蘇我家を継いだので、血統を蘇我家に戻す必要があったわけです。
私の調べでは、稲目より4代前の蘇我満智は日本書紀で「木満致」として登場する人物であり、満智の父親の代までは百済の将軍家の家柄でありました。そしてその頃の蘇我氏は現在の朝鮮半島南西部の町・木浦地方に拠点を持っていました。
木満致こと蘇我満智は、高句麗軍に敗れた百済の蓋鹵王の王子を避難させて熊川に遷都し、文周王として即位させるという、百済の国家危機を救った人物です。
そして、満智のひ孫にあたる蘇我稲目は満智をも上回る大策略を行いました。
稲目は何と、北陸蘇我王国の王であったオホド大王をヤマトに連れてきて継体天皇として即位させるという離れ業を演じ、さらにそればかりか、滅亡した金官伽耶国の最後の王・仇衡を脱出させ、日本に連れて来て欽明天皇として即位させるという、驚くべき策略を成し遂げたのです。(記紀では欽明天皇は継体天皇の子とされています)。
どうして稲目にそれほどの大事業ができたのか?ということを考えます時、やはり斉木雲州氏の説のように蘇我氏が北陸一帯を支配していた大豪族であり、さらに出雲国をも同盟者として従えていたという説に信ぴょう性を感じざるをえません。
また、それに加えて、満智の頃の蘇我氏は百済の将軍であり、木浦方面に勢力を張った豪族でもありました。
そして、満智の子の韓子の時代には新羅王室から妻女をもらい受け、新羅の王室とも縁戚関係を結んでいます。
つまり、この時代の蘇我氏という存在は、日本、伽耶、百済、新羅という国々の王室にすべて姻戚関係を持っており、それゆえそれぞれの国の国政に対して極めて大きな影響力を持っていた、ということになります。
実際、稲目以降の蘇我氏の頭領たちも歴史において大きな足跡を残します。いや、むしろ蘇我氏の全盛時代は稲目の子の馬子の時代から始まると言えますので、この時代の日本と朝鮮半島の歴史は蘇我氏を中心に動いていたと言って良いと思われます。
それにしましても、今回の稿で最後に私が申し上げたいのは、稲目が仇衡王を日本で即位させたという行為についてです。
これは、天孫ニニギが皇室の始祖であるという記紀の記述をご存じの方なら、なるほどと思われるところがあるかと思います。
天孫ニニギはおそらく金官伽耶国の皇子でした。その人が皇室の始祖となったのであれば、稲目の連れていた仇衡王は金官伽耶国王室の嫡子であるわけですから、稲目は乱れていた王室の血統を始祖の代のものに戻した、と言えるからです。
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