蘇我氏の正体㊸ 釈迦族・欽明天皇の行跡

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㊸ 釈迦族・欽明天皇の行跡。

鈴木武樹氏の説によりますと、金官伽耶国第十代王の仇衡は欽明天皇。
この人物はどのような生涯を送ったのでしょうか?

調べてみますと、この人は釈迦族の末裔であり、同時に日本に仏教興隆をもたらした大功労者であったようです。以下、鈴木説に基づいて仇衡王の行跡を追って行きます。

仇衡王の時代の金官伽耶国は、国としての歴史の終焉を迎えようとしていました。
金官伽耶国は南朝鮮に10か国前後あった伽耶諸国の中心とも言える国でしたが、なぜか周辺の諸国を支配するということをせず、緩やかな同盟関係を保持し続けていました。
これは、この国の王室が釈尊の血筋を引いていたことと関係があるかもしれません。
釈尊の教えの基本「十善戒」の第一は「不殺生戒」でしたから・・・。

しかし、そのことがあだとなって、伽耶諸国は国力を増大させることができず、百済、新羅、高句麗といった国から徐々に攻められることになります。
ヤマト王権は金官伽耶国を支援したため、この国はからくも命脈を保ち、日本との縁が深まり、日本からは「任那」と呼ばれていました。

521年に仇衡が王になった後も日本との同盟は続いていましたが、新羅の侵攻が激しくなり、国が滅亡することを予期した仇衡は王の座を弟の仇亥に譲り、自身は日本へ亡命します。
仇亥は新羅に降伏し、金官伽耶国は滅亡しますが、新羅の法興王は仇亥を優遇し、領国を安堵するとともに、上等という高位の官職を授けます。

法興王自身もまた熱心な仏教信者でした。この時期の新羅王室にも金官伽耶国との婚姻を通じて釈迦族の血が入っており、法興王は釈迦族直系の仇亥を喜んで迎えたのかもしれません。

一方、鈴木説によりますと、仇衡は日本に亡命し、欽明天皇として即位しました。
この説は衝撃的であり、異説も多々あり、また、古事記や日本書紀の記述とは全く異なるものなので、慎重に検証する必要があります。

この仮説に対して、当サイト主宰者である堀哲也氏の見解をご紹介します。堀氏は鈴木説に多くの傍証を加えておられ、その傍証はいずれも的確で具体的であり、非常に説得力の高いものです。

⑴ 欽明天皇という名前には、金官伽耶国を示す「金」の字が入っている。

⑵ この「金」という文字は金官伽耶国王家の姓であるとともに、釈尊の教義を黄金の光に例えたものである。

⑶ 欽明天皇の時代になってから、「任那の復興」という命題がヤマト王権の中で重要な課題となり続け、実際に日本は任那に何度も兵を送っている。

⑷ 「新羅本紀」には仇衡が新羅に降伏したという記述はない。

⑸ 欽明天皇が造営した都は「金刺宮」と呼ばれるが、この名前にも「金」の字が入っている。また、「金刺」はカシハラと読み、これは金官伽耶国の聖地「くしふるの峰」の転訛形である。

⑹ 日本において大規模な製鉄が始まるのは欽明帝の時代である6世紀半ばごろであるが、これは仇衡が製鉄技術者を伴って日本に亡命してきたためだと思われる。

前回、鈴木武樹氏による「欽明天皇=金仇衡説」の状況証拠を11項目列挙いたしましたが、堀氏はさらに6項目をつけ加えています。あくまで状況証拠とは言え、ここまで証拠が重なってくると、もはやこの説が真実としか思えません。

欽明天皇は日本への仏教公伝という大事業を成し遂げたほか、当時日本にあった神社の由来やご祭神を調査し、新たに祀りなおすなど、仏教だけでなくすべての神仏を敬う業績を残しました。そのため、現在日本に残っている神社の縁起書の多くが欽明天皇の治世時に端を発しています。

そして欽明天皇はまた、たいへん子だくさんな人でもありました。
日本書紀に残っている記述から見ますと、計6人の后との間に合計26人もの子供をもうけています。
重要なのはこのお方が釈迦族の血を引く人だったということで、26人の子供たちも皆、釈迦族の末裔であるということです。
欽明帝の子供たちの中には後の敏達天皇や推古天皇、用明天皇、崇峻天皇も含まれます。また、聖徳太子は欽明帝の孫になります。つまり、彼らもまた釈迦族の末裔なのです。

そして、蘇我稲目は欽明帝に堅塩媛、小姉君という二人の娘を嫁がせ、一気に大臣として政権のトップに躍り出ます。もしかしたら、仇衡の日本亡命は稲目(同じ釈迦族)の手引きによるものだったかもしれません。

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