蘇我氏の正体㊷ 欽明天皇は金官伽耶国の仇衡王か?
蘇我氏について調べる中で、当サイト主宰者の堀哲也氏に何度も相談し、その都度貴重な助言をいただきました。今回はその中でも超重要な情報である、「欽明天皇は金官伽耶国の仇衡王である」という仮説を追って行きます。
この仮説がどうして超重要なのかと言いますと、もしもこの仮説が真実だった場合、この時点で日本の皇室に釈迦族の血統が入ってきていることになるからです。
そう、金官伽耶国初代王の后・許黄玉は釈迦族の血を引く女性でした。それから十代目の王が仇衡王。つまり、仇衡王もまた釈迦族と言うことになるのです。
奇しくも日本書紀に記された仏教伝来の時期はこの欽明天皇の在位中の時期(在位539~571年。仏教公伝は538年と552年説がある)になっており、もしも欽明天皇が釈迦族であったなら、「だからこそ」彼は日本へ仏教を導入したとも言え、百済から彼に仏像や経典が贈られたのも、彼が釈迦族であったからこそ、ということになります。
では、なぜ欽明天皇は仇衡王と同一人物だと考えられるのでしょうか?
堀氏によりますと、この説を発表したのは鈴木武樹氏(元明治大学教授)だということです。
鈴木氏は欽明天皇=仇衡王であることの状況証拠として次のような点を指摘しています。
⑴ 「百済本紀」によれば、「531年、倭国では天皇(継体帝)・太子・皇子みな死す。」とあり、継体帝の後は安閑、宣化という天皇が即位したことになっている記紀の記述とは矛盾する。
⑵ 記紀では欽明帝は継体帝の子、という記述になっているが、欽明帝の皇子時代の名前が
記述されていない。
⑶ 欽明帝には死後につけられた「天国排開広庭天皇」という諡号はあるものの、本人の実名がなく、さらにこの諡号は天地開闢を意味することから、この天皇は「初代」である可能性が高い。
⑷ 百済本紀にある「天皇・太子・皇子みな死す」という記述は、この時期に日本でクーデターが起こったことを意味している。
⑸ 「上宮聖徳法王帝説」によると、によると、欽明帝の治世期間は41年である。一方、日本書紀には32年とある。欽明帝の崩御は571年。また、日本書紀は仏教の公伝を欽明13年(552年)とするが、「上宮聖徳法皇帝説」は欽明の治世の戌午の年(538年)としている。ということは、欽明帝が即位したのは日本書紀が伝える540年ではなく、532年である。(つまり、欽明帝は即位した年に仏教を導入した)。
⑹ 安閑の皇后のカスガノ・ヤマダが、欽明帝は賢者であるとして大王に推挙している。正妃の嫡子としては不自然な言葉である。
⑺ 欽明帝の生母といわれる手白香皇女の墓は、6世紀中葉の墓とは考えられないので、手白香皇女が生母とする伝承が出来上がってから適当に見繕われた墓と考えられる。
⑻ 「三国遺事」によれば、521年に即位して新羅に請婚した金官加耶の仇衡王(譲王)(在位:521年~532年)は、新羅の侵攻のため国が弱ったことを憂いて、532年に位を弟の仇亥(末王)に譲り、その仇亥は新羅に投降してこの国の最後の王になったとある。ところが「三国史記」には仇衡が新羅に降ったとの記述はないので、この王、つまり「日本書紀」の任那王の己能未多干岐こそ欽明ではないだろうかと思われる。
⑼ 日本書紀の継体紀に、522年4月、任那の王の己能未多干岐が倭に来て、大伴金村に新羅の侵攻を訴えた。倭王は己能未多干岐を任那に帰し、任那にいる毛野臣に事情調査を命じた。すると毛野臣は昌原の熊川に百済と新羅の使者を集めたが、新羅の使者が兵三千を率いてきたのを見ると、任那の己叱己利城にこもった」とある。このことから、己能未多干岐は新羅に投降することはできないと考え、倭に亡命してそこで自国(任那)の復興を画策したと考えられる。
⑽ 任那(金官加耶)の滅亡は三国史記によれば532年である。欽明帝になってから「任那の再興」が強調されるようになり、欽明帝やその子である敏達帝はともに、「任那復興」を遺言にしている。これは欽明帝と任那(金官加耶)が何らかの形で深く結ばれていたためと考えられる。
⑾ 「上宮聖徳法王帝説」は欽明帝が継体の皇子だとは記していない。また、誰の皇子だとも記していない。
鈴木武樹氏は上記の理由から、欽明帝は仇衡王であるという仮説を提唱していますが、いずれも見事な分析と推理であり、日本書紀という書物の改ざんの酷さを考え併せますと、鈴木説の方を信用したくなります。
また、日本書紀に書かれた「己能未多干岐(このまたかんき)」という名前を見ますに、「干」という文字が新羅では王を意味することから「この王のまたの名前」という意味を書紀が込めた架空の名前のように思えてきます。(古事記や日本書紀には時々こういう、自分のウソを自分でばらしているような記述が見られます)。
古事記や日本書紀は、天皇家が萬世一系であり、一度として血統の入れ替わりはなかったものとして書かねばならないという制約の中で書かれた書物でした。そのため、血統が入れ替わった時の記述にはウソが多く、さまざまな改ざんがなされています。
それはこの時期に限ったことではなく、慎重に見て行けば血統の入れ替わりは何度となく起こっているのですが、いずれも「家」としては存続しており、皇室は「家」として滅びたことは一度もありません。
また、そもそも継体帝という人物がそれまでの大王家と血縁があったかどうかもかなり怪しく、あったとしても五代孫というかなり薄い血縁でした。
その継体帝の死後、なんらかの政変があって日本は混乱を極め、同様に混乱していた金官伽耶国から王を招聘したとしても不思議はありません。欽明帝がもしも釈迦族の血を引く直系の子孫だったとしたら、日本も喜んで王として迎えたのかもしれません。
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