蘇我氏の正体㊶ 我が国初の仏教伝来の場所は雷山千如寺である。
福岡県糸島市にある雷山千如寺。
この寺の寺伝にはAD178年、インドから「清賀上人」という僧が渡来し、開基したとあります。これが真実なら、我が国に仏教が伝わったのは、俗に「仏教公伝」と言われているAD538年よりも360年も前だった、ということになります。が、私が考えている仏教伝来は実は清賀上人よるもさらにずっと古く、おそらくAD45年頃だと考えています。
そのことを順に追って行きましょう。
清賀上人の渡来したAD178年というと、三国遺事に書かれた金官伽耶国第二代王・居登王の即位年であるAD199年よりも前で、初代金首露王の治世中の出来事、ということになります。が、金首露王の生年はAD41年もしくは42年ですので、AD199年には150歳を超えていたことになり、これはかなり不自然ですので、実際には金首露王と居登王の間には少なくとも3世代くらいの王が存在したのではないかと思われます。
私はこの、記録に書かれていない金首露王と居登王の間の世代に、あの天孫ニニギがいたのではないかと考えています。
と言いますのは、雷山千如寺のある場所のすぐ近くに「雷神社」という名前の神社があり、この神社の主祭神を「水火雷電神」といい、これが天孫ニニギを指す名前であるからです。
雷神社は千如寺よりもさらに標高の高い場所にあり、千如寺から見ても「格上」の存在だと思われます。なぜ格上なのか?・・・それは、千如寺を創建した清賀上人から見て、ニニギがご先祖にあたる存在だったから、ではないかと私は考えます。
そもそも、どうしてインド人である清賀上人が雷山千如寺に来たのか?ということを考えてみましょう。彼はインドを出発後、まずは金官伽耶国を目指して朝鮮半島に到着し、そこから九州に向かい、先祖であるニニギが訪れた糸島の地を、彼の足跡をなぞるようにして訪れ、その地を自らの仏教伝播の地として選んだのではないか?と思えるのです。
金官伽耶国の金首露王の王妃・許黄玉が釈迦族の女性であることは前回までに説明しましたが、そのとき、インド・サータバーファナ朝から多くの家臣団が、許黄玉を守るために金官伽耶国に渡来しました。
その中には長遊禅師という仏教の高僧もいて、この人は許黄玉の実の兄でもありました。
許黄玉の兄、ということは、長遊禅師もまた釈迦族であったということになります。
長遊禅師は許黄玉と金首露王の間に生まれた子供のうち7人を出家させ、その7人の子供たちはすべて成仏して仏道修行を成し遂げ、天に昇って行ったという伝説が韓国の七仏寺という寺の伝承にあります。
この「天に昇った」という記述が「日本に渡った」という史実の暗喩的表現であるとしたら、7人の子供たちはすべて日本に来ていたことになります。そして、おそらく長遊禅師自身もまた日本に渡来していて、糸島にも足を運んでいたことでしょう。
彼らはインドから中国を経て朝鮮半島へ渡来するという長旅を成し遂げた人々でありましたので、玄界灘をひとまたぎして糸島に来るくらいのことはなんでもなかったでしょう。
彼らが糸島にやってきた理由は、日本との交易を確立して国力を高めること、日本の地下資源の開発、そして仏教の普及でした。
サータバーファナ王国の遺跡からはローマの金貨が出土しています。ということは、この国は当時、西はローマから東は日本までを往復できる、大海洋交易王国だったわけです。
今から二千年も前のことなのでにわかには信じがたいと思われる方も多いかと思われますが、古代人の航海能力はかくも優れたものでした。
話を戻しますと、糸島雷山という場所には、金官伽耶国建国後まもなく長遊禅師が訪れており、それからしばらく経ってから子孫の天孫ニニギが渡来し、さらにその後に清賀上人が渡来した、と私には考えられるのです。
我が国初の仏教伝来の年をできる限り正確に算定するなら、おそらくAD45年頃。
金首露王の生年がAD41年とすると、許黄玉との間に子供が生まれ始めるのがAD60年頃。その子供たちが成人し、立派な仏教僧となって日本に布教の旅に出始めるのがAD80年頃、と考えます。
が、長遊禅師自身はもっと早くに日本を訪れていたでしょうし、訪れた先では必ず仏教を布教したでしょうから、その可能性が最も高いのはAD45年頃ではないかと思うのです。
なお、天孫ニニギは糸島に上陸後、笠沙岬(現在の鹿児島県野間岬)まで行って、現地の王であった大山祇(熊襲の王か?)に会い、その娘であるコノハナノサクヤヒメと結婚しています。ニニギの場合は金官伽耶国と熊襲国が同盟を結び、後顧の憂いをなくすための政略結婚であったと考えられます。ニニギを祀る神社は主として南九州に集中しており、彼の活動がこの地を中心に行われたのは確実です。
また、雷神社の祭神には水火雷電神(ニニギ)の次に、高祖大神という神様が祀られており、これは彦火火出見尊を指すようです。
記紀において彦火火出見はニニギの子という設定になっていますが、この人を祀る神社は宮崎県北部の高千穂周辺に多く、ニニギとは神社の分布が少し違います。このことから、私は彦火火出見は高千穂周辺を治めていた王であり、ニニギとは生活の基盤とした場所が少し離れているため、親子関係はなかったのではないかと考えています。
そして、記紀において彦火火出見の子とされるウガヤフキアエズノミコトですが、このお方を祀る神社は現在の大分県から宮崎県にかけて多く、ちょうどホホデミとニニギの生活場所の中間あたりにあります。彼らに親子関係があったかどうか?私にはこの頃の九州地方の伝説的首長を並べただけ、とも思えます。
しかし、そのウガヤフキアエズの息子として記紀に登場する五瀬命という人物。私はこの人こそは間違いなく天孫ニニギの直系の子孫であり、現在の福岡県から大分県にかけての広大な地域を支配した王であったと考えています。なぜなら、彼を祀る神社の分布がそうなっており、その足跡はニニギと同じく鉱山を求めて探検を繰り返すものであり、祀られている神社を追って行くと地下資源のある場所に多く存在することがわかるからです。
記紀において五瀬命は神武天皇の兄とされ、東征の司令官であったと伝えられていますが、実際には神武天皇という人物は実在しておらず、「神武東征」は「五瀬東征」であったと私は考えています。
五瀬命は記紀の記述通り、東征の戦いにおいて敵の毒矢に倒れ、無念の死を遂げました。
現在も和歌山市内に五瀬命を祀る竈山神社があることから、この人の実在はほぼ間違いないと思われます。私の推測通りなら、この人もまた釈迦族の末裔でした。
(写真上は千如寺。下は清賀上人像)。
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