蘇我氏の正体㊳ 蘇我氏は釈迦族の末裔である。 その2 許黄玉について
金官伽耶国初代・金首露王の妃・許黄玉という女性は日本古代史上非常に重要な人物で、研究者の中にはこの人を天照大御神に比定する人もいます。
また、かりに許黄玉がアマテラスではなくても、この女性は古代日本における数種の有力な氏族の共通祖先となっている可能性が高く、また、日本語の完成や製鉄、養蚕、薬学、お茶など、様々な技術や文化を日本にもたらした可能性が高い人物です。
そして、許黄玉とその一行は「仏教」をも、最も早い時期に日本に伝播した人々であるようなのです。この項ではこの許黄玉を調べて行きます。
実は、許黄玉の素性は古代の人にしては非常にはっきりしています。
許黄玉はAD32年、中国、晋州安岳県(現在の四川省資陽市)瑞雲許家鎮の生まれ。なんとこの地には現代でも許家直系の子孫たちが住んでいます。
許黄玉は純粋な中国人ではなく、インド、サータバーファナ王国の王室の血を引く皇女と中国の巫術の大家・許家の男子との間に生まれた女性でした。
釈尊の入滅後、釈迦国がコーサラ国に滅ぼされ、そのコーサラ国も滅んだ後、同じ場所に建国された国がサータバーファナ王国でした。
サータバーファナ王国の王室はバラモン教の司祭の家柄でしたが、王族の中には仏教を崇拝する人も多く、国教はバラモン教でありながら、この国の王は仏教を厚く保護しました。このため、当時、命脈が尽きかけていた釈迦族の子孫のうち、何人かの釈尊の遺族たちは生き残ったのです。
しかし、その王室の基盤は決して安定したものではありませんでした。
サータバーファナ王国は当時、西にあった西クシャトラパ王国と戦争を繰り返し、勝ったり負けたりという状態が続き、国力は著しく疲弊していました。
このため、許黄玉の母親一族は全滅の危機を回避するため現在の中国の四川省に亡命し、許黄玉が生まれた頃には安岳という村に住んでいました。
しかし、その場所もまた、彼ら一族の安住の場所とはなりませんでした。
時は前漢の末期。漢の中央政府の統治力が衰え、地方官吏が好き放題なことをやり始めた時代でした。中央から遠い四川省でも役人は住民に法外な税金を課し、懐を肥やすという事態が続いたため、人々は人望篤かった許氏を頼り、許氏は何度か反乱を起こしました。
そのような騒乱は中国全体に起こり、前漢は滅亡。AD8~23年、王莽による新の建国を経て、後漢の英雄・光武帝が登場、漢は地方への権力を取り戻します。
AD48年、許氏による反乱は光武帝により鎮圧され、捕らわれた許氏一族は江夏(現在の武漢市武昌)に移住させられます。
このAD48年は許黄玉が金官伽耶国の首露王に嫁いできた年でもあります。
許黄色を江夏から脱出させ、朝鮮半島に送り、金首露と結婚させ、金官伽耶国の建国を演出したのは、後漢と対立していた遊牧民族だったと思われます。
掲載の地図をご覧ください。後漢帝国を取り囲むように、匈奴、鮮卑、姜、扶余といった遊牧民族の国々が割拠しています。
光武帝という非常に強い皇帝が登場してまもなく、遊牧民族中最大の勢力であった匈奴は内部分裂を起こし、その勢力は著しく衰退しました。
代わって西アジア方面に勢力を伸ばしたのが、月氏と呼ばれる民族です。
私はこの月氏という民族が、蘇我氏のルーツではないかと考えています。
真鍋大覚著「儺の国の星 拾遺」という本の中に、「蘇我はもと素娥と書き、月の東洋的異名であった」という記述があり、月という文字が蘇我氏のルーツを示しているのではないかと思えるのです。
月はまた遊牧民にとって信仰の対象でもありました。暑い砂漠を移動する民族にとって太陽は畏怖の対象であり、月が神様だったのです。この信仰が日本に伝わり、月読命となったものと思われます。
実際、蘇我氏の時代の古墳からは中央アジア伝来の宝石やガラス細工等、月氏国との結びつきを思わせる遺物が多く出土しておりますし、この時代の遊牧民たちがアジア大陸を簡単に横断するほどの移動能力を持っていたことを考えますと、後漢に駆逐された遊牧民たちの一部が朝鮮半島から日本まで逃げ込んでいたとしても不思議はありません。
月氏国はこの時、金官伽耶国とは反対側の中央アジア方面にいました。
彼らはこの後、インドに侵攻し、釈尊の生地を擁するサータバーファナ王国にも侵入しますが、それ以前にすでに仏教を取り入れていたと思われ、この時点では篤い仏教保護者でした。
月氏はインドに入ってクシャン朝という王朝を建国しますが、この月氏のインド侵攻には「釈尊の生地に近づきたい」という願望があったかもしれません。
金官伽耶国は、この月氏と鮮卑族、扶余族らが後漢に対抗するために連合して、東の軍事拠点を作るため、釈迦族の末裔である許黄玉を国王の王妃として招聘して作られた国だと思われるのです。この意味で許黄玉は国王の金首露よりずっと重要な存在でした。もしかしたら許黄玉のほうが王だったかもしれません。
ここにおいて、東アジアに初の釈迦族の国・金官伽耶国が誕生します。
許黄玉の子供たちの多くは日本に渡り、日本国の有力な氏族となって行きます。つまり、日本もまた釈迦族の作った国であると言えるのです。
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