蘇我氏の正体㊲ 蘇我氏は釈迦族の末裔である。

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㊲ 蘇我氏は釈迦族の末裔である。

 今回からは、釈迦族の末裔が蘇我氏となって日本に渡来し、現在のわれわれ日本人のDNAの中に釈迦族の遺伝子を残した、という仮説を展開します。

 悪役のイメージが強い蘇我氏ですが、蘇我氏は代々、日本に仏教を興隆させるべく不断の努力を続けた一族です。もしも日本書紀に書かれている蘇我氏の悪口がすべて真実だったと仮定しても、蘇我氏が日本に仏教を浸透させた最大の功労者であることは間違いなく、現代でもなお日本が世界有数の仏教国であるのはひとえに蘇我氏の働きによるものです。

 その蘇我氏が釈尊を輩出した釈迦族の血を受け継いでおり、だからこそあれほどまでに仏教興隆に尽力したのだとしたら?・・・。彼らの足跡をたどって行くと、どうやら彼らは釈迦族であったらしい、という史実が浮かび上がってくるのです。

 では、時計の針をこれまでから数百年巻き戻して、紀元40年頃の朝鮮半島を舞台に見て行きましょう。西暦41年か42年あたり、現在の韓国南部の町、金海市になっている場所に、「金官伽耶国」という都市国家が誕生します。

 金官伽耶国は日本古代史を語る上で極めて重要な国で、学者によってはこの国を高天原に比定する人もいます(これを否定する意見も多々ありますが)。
 
 私自身も、記紀に登場する高木神、天御雷命、天照大神、天孫ニニギといった神々は実際に金官伽耶国に住んでいた人々のことではなかったかと考えています。
 つまり、記紀における数々の神話はこの国の歴史を語っているとも考えられるのです。

 が、ここでひとつ、断りを入れておかねばなりません。

 「日本人の祖先が朝鮮半島にいた」ということを書くと、即座に「だったら日本人の先祖は韓国人だと言うのか?」と、目をむいて怒り出す人がいます。
 しかしながらこれは歴史の認識不足による勘違い、としか言えません。

 古代の朝鮮半島に存在した伽耶国、百済、新羅という国はすべて、その国が滅亡するときに、遺民たちが数万という単位で日本に逃げてきています。彼らは日本に亡命し、帰る場所がなくなったため、そのまま日本で生活し、生涯を終えました。
 彼らの多くは先住していた日本人と婚姻し、子孫を残しました。そのため、現代のわれわれのDNAには伽耶、百済、新羅の人々の遺伝子はすべて受け継がれています。この意味で、これらの国はすべて日本の祖先国と言って良いのです。

 一方、古代から大陸における戦争では、勝ったほうが負けたほうの人民を皆殺しにするということが普通に起こっていました。伽耶も百済も新羅も、国が滅亡するときは男性や子供はほぼ殲滅され、男系の遺伝子は大陸にはほとんど残らなかったのです。
 負けた国の女性は勝ったほうの慰みものになりました。そのため、女性の遺伝子は現在の韓国にも残っていますが、男系の遺伝子のほとんどは日本にこそ残されたのです。

 それゆえに、伽耶、百済、新羅の文化、風俗、習慣などもほとんど日本側に引き継がれました。これらの国の伝統行事や祭祀、習俗から家の建付け方法に至るまで、日本人に引き継がれたのです。

 この意味で、われわれが日本の古代史を考えるとき、頭の中に思い浮かべるべき地図は現在の日本地図ではなく、朝鮮半島全体と日本列島をまとめて「一つの国」と認識してとらえるべきなのです。現代のように国境が日本と韓国とに分かれているのは朝鮮半島が異民族である高麗という国に侵略され、それまで居住していた民族が根絶やしにされて以降のことで、それまでは日本と朝鮮半島は同じ国と言って良い状態だったのです。

 言葉を変えて言えば、後の時代に日本、韓国、北朝鮮と呼ばれるようになった巨大な同一文化圏の中に、古代には伽耶、百済、新羅、高句麗、そして出雲、熊襲、伊都国、奴国といった都市国家群がひしめいており、これらの都市国家が時間とともにだんだん集約されて大きな国家になってゆく様子が日本の古代史であるともいえるのです。

 このことを正しく理解していれば、「高天原は朝鮮半島にあった」という仮説を耳にしても腹は立たないはずです。なぜなら、古代、そこは日本だったのですから。
 そして、実際に金官伽耶国が建国されてからしばらくの間、日本と朝鮮半島の歴史は金官伽耶国を中心に動いており、当時の金官伽耶は日本の首都と呼べるような存在でした。

 なぜかと言いますと、この地方には鉄の鉱脈が大量に存在しており、鉄を保有することがそのまま国家の強さの基準になっていた時代においては、この地が戦略上、極めて重要な土地だったからです。

 現在の韓国の高霊市から金海市にかけて流れる洛東江という川の沿岸部に、鉄鉱石の鉱脈がいくつも点在しておりました。これに目をつけたのが朝鮮半島北部にいた遊牧民たちです。

 紀元前200年頃、現在の中国に強大な前漢帝国が出現し、周辺にいた遊牧民族たちを辺境に追いやります。
 しかし、紀元1年前後になりますと、さしもの前漢帝国の国力も疲弊してきます。
 
 その後、新という国が前漢を滅ぼして勃興しますが、この国はわずか15年で滅び、後漢となった漢帝国が復活、強大な支配力を取り戻します。
これに対し、遊牧民族たちはヨコの連絡を取り合って連携し、後漢に対抗しようとします。

この連携戦略の要と言えるのが、遊牧民族たちによる金官伽耶国の建国でした。
彼らはこの国に入り、鉄鉱石鉱山の利権を押さえることで鉄製の強力な武器を大量に作り、後漢に対抗しようとしたのです。

金官伽耶国を建国した初代の王の名は金首露(キムシュロ)といいます。
 当サイトの主催者である堀哲也氏によりますと、「金」という文字には「仏」という意味があるそうで、古代の仏教徒はしばしば仏の教えを黄金に例えていたようです。
 また、「シュロ」という名前は「光り輝く」という意味のサンスクリット語「シュリ」から来ているようで、金首露という名前には「光り輝くブッダの教え」という意味があるようです(いずれも堀哲也氏投稿より)。

 仏教は、階級主義が顕著だったインドや漢帝国では受け入れられず、財産をほとんど持たずにアジア大陸を自由に移動していた遊牧民たちに受け入られ、広がって行きました。

 そして、金首露王の王妃となった許黄玉という女性。この人こそ釈迦族の女性でした。
この許黄玉と金首露の子供たちが蘇我氏の先祖につながって行きます。
                                    

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