蘇我氏の正体㉟ 木刕満致は木浦満智ではないか?(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㉟ 木刕満致は木浦満智ではないか?

 門脇偵二氏が提唱した「木刕満致=蘇我満智」説。
 今回はこの説に新たな解釈を付け加えたいと思います。

 朝鮮の史書「三国史記」に木刕満致、日本書紀では「木満致」として登場する人物。
 この二人は同一人物であり、正体は蘇我満智であるとするのが門脇説です。
 蘇我満智は蘇我馬子から数えて4代前の祖先にあたり、この満智の世代に蘇我氏は百済から渡来した、と門脇氏は提唱します。

 門脇説を支持するとした場合、「では、蘇我満智のことをどうして木刕満致と呼んだのか?」という疑問が生じます。この疑問に対して私は、蘇我満智が朝鮮半島の南西部の町、木浦の出身だったからではないか?と考えます。

 この時代、人物を出身地の地名で呼ぶことはよくあることでした。たとえば「蘇我日向」
は九州の長官でしたし、「蘇我倉山田石川麻呂」という名前の「山田」と「石川」は、ともに彼が領有していた土地の地名です。

 つまり、木刕満致は「木浦の満智」と俗称で呼ばれていた人物であり、本名は蘇我満智であったのではないかと考えられるのです。

 木浦という文字は朝鮮語でMOPPOと発音されるようです。これを日本人が聞いた場合、「木刕」、「木羅」「木」などの漢字を当てはめた、とも考えられます。この意味からも「木刕満致」と「蘇我満智」は音韻的にかなり近いということが言えます。。

 また、歴史的な経緯から見ましても、この木浦という場所に蘇我氏の祖先が居住していたことはじゅうぶんに考えらるのです。

 蘇我氏の祖先を遡ると、遠く中央アジア方面にまでその源流を見ることができます。

 古来、多くの民族が中央アジアから朝鮮半島、そして日本にまで遠く旅をして渡来して来ていますが、蘇我氏もそうした氏族の一つだったと考えられるのです。

 彼らが渡来してきた理由は、戦争に敗れて逃げたため、戦略的な移動、そして商業活動、主として貴金属や鉱物資源を求めてのことだったと思われますが、木浦という土地を俯瞰しますと、この土地は軍事的にも商業的にも非常に重要な場所で、日本と朝鮮半島を結ぶ拠点となる港のひとつであり、中国や北朝鮮方面との交流の中継地でもあり、さらに天然の良港と天険の要害である地形を持つ、異動民族が拠点とするには最高の場所でした。

 三国史記には木刕満致が百済国の高官であり、百済が高句麗に攻められて首都漢城が落城したとき、主君であった文周王と連れて熊津まで落ち延びた、とあります。

 百済という国は高句麗の建国者であった朱蒙という人物の息子・温祚王が作った国で、漢城(現在のソウル)を首都としていました。
 温祚王がこの地に入った時、すでに木浦に蘇我氏の祖先が入植しており、かなりな勢力を持っていたとしたら?・・・両者は戦わずに婚姻政策を採り、蘇我氏の女性が温祚王に嫁ぎ、満智は外戚となって百済の高官として迎えられた、と考えればつじつまが合います。

 三国史記に書かれた木刕満致の行為は、高官というよりもむしろ丞相と言うべき最高責任者の行為であり、文字通り百済という国の命脈を支えています。もしもこの人物がほんとうに蘇我満智であったなら、蘇我氏という一族は百済と日本の両方で丞相に匹敵する地位を確保した人材を輩出していたことになり、おそろしく優れた能力を代々発揮していた氏族であると言えましょう。

 そして、興味深いことに、この木浦周辺の地からは前方後円墳が多数発見されています。

 この前方後円墳は日本から半島に伝わったのか? あるいは半島から日本に伝わったのか?ということは今だに論議されており、多くの説を生んでいますが、その築造年代は蘇我満智から馬子にかけての時代と合致します。
 木浦にいた蘇我氏は日本とも交流を深めており、日本と半島の交易を仲介することによって莫大な利益を産んでいたと考えられるのです。蘇我氏一族と日本の有力者たちの婚姻もさかんに行われていたことでしょう。

 特に、西方からの異動民族である蘇我氏は貴金属に対する嗅覚が鋭く、新潟県糸魚川産の翡翠などの利権を手中にすることにより、これを輸出品として大陸に運んでおりました。

 また、大分県と宮崎県の県境付近に「木浦鉱山」という名前の鉱山があります。
 この鉱山は蘇我氏が開発し、「木浦の蘇我氏の鉱山」という意味でこの名がつけられたとしたら、この鉱山の名前は私の推論と符合します。

 さらに、墓制を見ましても、木浦周辺には甕棺墓の出土が多く、これは古代からこの地が日本と密接に結びついていたことを示しています。
 甕棺墓は徐福が持ってきた習俗であると思われ、吉野ケ里を起点に福岡県一帯まで広く分布しており、さらに朝鮮半島南部の木浦付近に多く見られますので、このあたりは蘇我氏が入植してくる以前から日本と変わらない、九州にいた人々が多く居住していた地域とみなすことができるのです。

 当然、ここに来た蘇我氏は日本との関係が深くなり、自然に日本へと移住するようになっていったものと考えられます。

 さらに、もうひとつ地理的に重要なことがあります。木浦という場所は日本という国と極めて関係の深い金官伽耶国(現在の金海市あたり)と近く、この国と西日本一帯は当時、同じ国、あるいは同じ文化圏と言っても良いくらいの地域でした。

 金官伽耶国からはニニギ、五瀬命といった人々が九州へ、鉱物資源を求めて渡来した、と私は考えています。これと前後して、木浦からは蘇我氏の祖先たちが九州や北陸地方に渡来し、やはり鉱物を求めて日本の人々と交友関係を結び、富を築いてその権力を拡大させて行った、と思われるのです。

 この仮説を裏付ける資料として、以下の写真を添付します。

 2枚目は、木浦から栄山江という川を遡上した場所にある、藩南面新里9号墳から出土した金銅冠。


 3枚目は藤ノ木古墳(聖徳太子の墓という説あり)から出土した金冠。


 4枚目は金官伽耶国の開祖・金首露王と許黄玉王妃の肖像画です。

 王の印である王冠に、同じようなデザインのものを使用していたことがわかります。これらの国々が同系統の王朝であるとも考えられるのです。

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