蘇我氏の正体㉞ 山田寺の仏頭(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㉞ 山田寺の仏頭

 写真は奈良・興福寺の宝物館にある「山田寺仏頭」。阿修羅像とともに興福寺の至宝であり、日本の仏教美術を代表する名作です。
 と同時に、この仏頭は蘇我氏がたどった仏教興隆の道の苦難を象徴するような存在であり、蘇我氏と藤原氏の軋轢の歴史をそのまま語っているかのような、不思議な仏像でもあります。

 山田寺は飛鳥時代、都のほど近くに建てられた、我が国で最も初期の仏教寺院の一つ。
建立を発願したのは蘇我倉山田石川麻呂。この人物は蘇我馬子の孫にあたる蘇我氏嫡流のひとりですが、大臣の地位を蘇我蝦夷・入鹿が継いだため、政権の中にあっては脇役のような位置にありました。

 日本書紀によりますと、石川麻呂は乙巳の変に加担し、同じ蘇我氏でありながら蘇我入鹿謀殺計画の片棒を担いだとされ、その功により右大臣に任命されたと書かれています。

 が、過去、何度も申し上げておりますが、この乙巳の変という記述はどこまでが真実なのか、非常に怪しいところがあります。そのため、石川麻呂という人物もほんとうに、身内を売って報酬を手にするような姑息な人物であったのかどうか、簡単に決めつけてはならないと思われます。

 ただ、ひとつ確実に言えるのは、この人物の名前、「蘇我倉山田石川麻呂」という名前の語感は、同時代の蘇我蝦夷や蘇我入鹿に比べてもよほど堂々としており、むしろこちらのほうが本流なのではないかというイメージさえ感じさせる、ということです。
「倉」は財務の統括者であることを示し、「山田」は飛鳥の都に近い土地の名前、すなわちその土地の所有者であることを意味します。そして「石川」は、蘇我一族の祖先・蘇我石川宿禰から引き継いでいる頭領の名前で、この名前は「自分こそが蘇我氏の嫡流・本宗家の主人である」と宣言しているような名前なのです。

 また、「藤氏家伝」という書物には、石川麻呂のことを「剛毅果敢にして威望亦た高し」と書かれています。藤氏家伝というのは藤原氏の歴史を記した書物であり、蘇我氏と敵対していた藤原氏がそうそう蘇我氏の人間のことを褒めて書くことは考えにくく、それなのにこのような記載があるということは、この人物評が真実であるということの証拠と言えるかもしれません。

 が、日本書紀に書かれた石川麻呂の生涯はあまりぱっとしません。

乙巳の変で蝦夷・入鹿を謀殺する片棒を担いだ後、右大臣に出世するものの、異母弟の蘇我日向から「石川麻呂が謀反を起こそうとしている」と讒言され、それがもとで石川麻呂は山田寺において自害に追い込まれてしまいます。

 ここでは、「政敵が謀反を企んでいるという噂を流し、権力者にそれを信じ込ませて誅殺する」という手口が連続して二回、乙巳の変と石川麻呂誅殺事件とで使われていることにご注意ください。犯罪者というのは、同じ手口の犯行を繰り返すものなのです。
 そして、一度目は蘇我石川麻呂が蘇我入鹿を、二度目は蘇我日向が石川麻呂を陥れる、という、蘇我一族同士の内部抗争として、この物語は描かれています。

 したがってこの物語は、表向きには蘇我氏同士の抗争の物語なのですが、実際にはそうでなかったことは明白です。それは、「入鹿がいなくなれば、石川麻呂がいなくなれば、誰が一番得をするのか?」という、推理小説の謎解き手法を使えば明らかです。

 が、この稿では犯人捜しはいたしません。

 石川麻呂亡き後の山田寺はその後どうなったのか?
 石川麻呂の生前には金堂をはじめ、いくつかの伽藍が完成しており、寺に起居する僧もいたようです。
 石川麻呂の死が649年。その後、しばらく建立工事は中断しますが、石川麻呂が冤罪であったことがわかり、寺の普請は再開され、676年に塔が完成。678年に丈六仏像(写真の仏頭を持った仏像)が完成します。この年、天武天皇がこの寺に参拝しました。

 この寺が完成するまでの間、乙巳の変(645年)、白村江の戦い(663年)、壬申の乱(672年)という、歴史を揺るがす大事件がいくつも起こりました。

 時代が下がって1187年。興福寺の僧兵が山田寺に乱入し、薬師三尊(丈六仏。仏頭)を強奪して興福寺に持ち帰ります。藤原不比等ゆかりの興福寺の兵が蘇我氏ゆかりの山田寺を攻撃するという蘇我・藤原抗争が、この時代でもまだ続いていたということは驚きです。

 それから224年後の1411年、興福寺の火災によって薬師如来像は焼け落ち、頭部だけが残って本尊の台座内に格納されます。このことは人々の記憶から失われ、それから526年後の1937年になってようやく再発見されます。

 その後、この仏頭は国宝に指定され、今では興福寺の宝物殿に行けばだれでも拝むことができるようになっていますが、この仏様のように人間の泥臭い欲望によって翻弄され、乱暴に扱われ、傷つけられた仏像は他にないと言って良いのではないでしょうか?

 この仏像の正式な開眼は685年3月25日。蘇我石川麻呂自害後36年目の命日の日と伝えられています。
 いわば、石川麻呂の魂はこの仏頭の中に入り、その後の歴史を凝視してきた、と言えるかもしれません。

 石川麻呂や日向、あるいは馬子、蝦夷、入鹿といった蘇我氏の人々は、藤原時代を築くための謀略によって政権を追われ、後付けの罪をでっち上げられて悪人として日本書紀に描かれたと思われます。馬子や蝦夷の悪口が書かれている個所と同じく、石川麻呂や日向に関する日本書紀の悪口は、理由が不明だったり、つじつまの合わないものが多いのです。

石川麻呂を自害に追い込んだ蘇我日向もまた、大宰府に送られて「島流し」と揶揄されたりするのですが、真実はどうであったか? 白村江の戦を目前に控えたこの時期の大宰府の長官という職が軽いものであったはずはないと、私には思えます。

 確実に言えるのは、日向もまた、般若寺という寺を創建して仏教興隆に尽力しているということです。蘇我氏の頭領たちはみな、仏教寺院を建立しています。しかもそれは官費を使ってのことではなく、私財を投入してのことだったと思われるのです。

 蘇我氏の真実は、この、山田寺の仏頭だけが知っているのでしょう。

 石川麻呂の後、蘇我氏は歴史の表舞台から遠ざかり、時代は藤原氏の世になって行きますが、石川麻呂の娘は天智、天武、孝徳の三帝に嫁ぎ、皇室に蘇我氏の血脈を残します。

1023年、藤原道長は山田寺を訪れ、その荘厳さに「言語に尽くしがたく黙し、心眼及ばず」と感嘆しています。仏頭は道長に、何を語りかけたことでしょうか?

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