蘇我氏の正体㉝ 磯長谷古墳群はなぜ飛鳥から離れた大阪府にあるのか?(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㉝ 磯長谷古墳群はなぜ飛鳥から離れた大阪府にあるのか?

磯長谷(しながだに)古墳群。
飛鳥時代の大王であった敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇らを祀る古墳群が存在する場所です。
私が不思議に思うのは、これらの古墳が飛鳥の都とはかなり離れた、大阪府南河内郡太子町という場所にあることです。

同じ飛鳥時代の天皇である天智天皇、天武天皇、斉明天皇らの御陵が飛鳥の都の近くに作られているのに対し、磯長谷古墳群は飛鳥から山脈を越えた場所にあり、当時の人の足では一日で行って帰ってくるのは難しいと思われる場所にあります。
この位置関係にこそ古代の秘密が隠されているように、私には思えるのです。

少し詳しく見て行きましょう。
敏達、用明、推古の三帝は欽明天皇の子供たちで、孝徳天皇は欽明天皇のひ孫にあたります。
つまり、磯長谷古墳群にある御陵はみな、欽明天皇の子孫である天皇が埋葬されているということになります。

欽明天皇の父は継体天皇。
継体天皇と言えば、それまでの王室とはかなり縁の薄い大王であり、仮に血がつながっていたとしても、五代前の応神天皇にまで遡らないといけないという、極めて遠縁にあたる血筋でした。そのため、この系図を疑う意見も多く、それまでのヤマト王権とは違う血筋ではないかと考える説も多くあります。

磯長谷古墳群はまた、継体帝以前の王家であった仁徳天皇や履中天皇、反正天皇らの御陵がある大阪府堺市と飛鳥の都の中間点近くに位置しています。
つまり、歴代天皇家の墓所は、大阪府堺市⇒大阪府南河内郡太子町⇒飛鳥地方(奈良県橿原市~明日香村近辺)と、少しずつ移動しているのです。それは、海外へ行きやすい海辺から、海外からの侵攻に対して守りの固い内陸部へ、という移動でもあります。

そして、磯長谷古墳群の特徴は、欽明天皇の子孫の墓であると同時に、蘇我氏と縁が深い大王たちの御陵である、とも言えるのです。
順に見て行きますと、敏達帝こそ直接蘇我氏の血脈は受け継いでおりませんが、用明帝と推古帝の母は蘇我稲目の娘です。孝徳帝には蘇我氏の血は入っておりませんが、后が蘇我倉山田石川麻呂の娘です。また、敏達帝の皇后は推古帝でした。
こう見て行くと、この4帝はすべて蘇我氏系の大王と言えます。

そして、敏達帝は、直接、蘇我氏から日本への仏教普及を懇願された最初の大王です。
敏達帝自身は仏教導入にあまり熱心ではなかったと伝わります。しかし、この時代は仏教普及に反対する勢力の力が強く、群臣を束ねるには仏教を推進する大王では難しかったと思われます。

蘇我家の血が入った用明帝の時代になって、帝は仏教を大々的に導入、普及に当たらせます。これは蘇我の稲目・馬子親子が描いていたシナリオだったに違いなく、自分たちの家族を大王にすることで、ようやく日本に仏教を導入することに成功したのでした。
しかしながらその行為には常に、大きな反対勢力がつきまとっていました。物部氏と中臣氏がその急先鋒で、用明帝は即位してわずか二年で急死し、これを物部氏らによる謀殺と見た蘇我氏との間で丁巳の乱が発生し、蘇我氏の勝利で終わります。

仏教伝来に伴って発生した日本の宗教戦争はおぞましいものでした。この用明帝暗殺に始まり、次の崇峻帝も暗殺されたと日本書紀では伝えられています。暗殺したのは蘇我馬子と書かれています。
その崇峻帝は用明帝、推古帝と同じく、父が欽明帝、母が稲目の娘なのですが、磯長谷古墳群には崇峻帝の御陵はありません。これは馬子と対立して殺されたことが大きく影響していると思われます。

つまり、磯長谷古墳群は蘇我氏関係大王かその側近の墓所であると同時に、仏教保護者たちの墓所でもあり、この両方に該当しない人物は埋葬されていないと言えるのです。

また、磯長谷古墳群は飛鳥地方から見ると、葛城の地を越えた、山一つ向こうの地にあります。
この葛城地方は蘇我家の祖先である武内宿禰ゆかりの地で、蘇我馬子が推古天皇に割譲を申し出て、「それだけは」と許されなかったというエピソードが日本書紀に書かれています。

もしかしたら、馬子らは蘇我氏関連大王たちの墓所を葛城地方に作りたかったのかもしれません。そうして、武内宿禰以来の先祖代々をまとめて菩提を守ろうとしたとも考えられるのです。

また、磯長谷古墳群には、聖徳太子の墓と言われる「叡福寺北古墳」があります。
聖徳太子の墓は、他に「藤ノ木古墳」という有力な古墳もありますので、どちらが太子の墓であるのかはっきりしません。
しかしながら、磯長谷古墳群のある土地の地名が「太子町」であることや、私の推測である「磯長谷は仏教保護者たちの墓所である」という仮説が正しければ、「叡福寺北古墳」こそが聖徳太子の墓である、と考えたくなります。

日本書紀によりますと、蘇我入鹿が殺された乙巳の変を境に蘇我氏系大王の時代は終り、天智帝、天武帝の時代に入ります。
この天智・天武の両帝は敏達天皇の孫、ということになっておりますが、蘇我氏系の血は入っておりません。このあたりも、本当にこの両帝がそれまでの大王家と血縁がつながっているのかどうか、疑問視する意見も多くあります。

しかしながら面白いことに、天智・天武の両帝は、蘇我馬子の息子である蘇我倉麻呂の孫娘を后としています。まるで、改めて蘇我氏の血筋を大王家に入れようとしたかのように。
乙巳の変で蘇我入鹿が劇的な殺され方をして、その父蘇我蝦夷も同時に死亡したため、一般的には蘇我氏はここで滅んだと誤解されがちですが、蘇我氏の血脈はまだまだずっと大王家に引き継がれて行ったのです。

(写真は磯長谷古墳群の一、推古天皇陵)。

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