蘇我氏の正体㉛ 蘇我氏歴代の墓はどこにある?(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿
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蘇我氏の正体㉛ 蘇我氏歴代の墓はどこにある?

これまで何度か蘇我氏のルーツを探ってまいりましたが、それを最も確実に判断する方法のひとつは、彼らの墓を調べることです。墓というのはその造りや副葬品から被葬者の属する民族や背景にしていた文化がわかることから、なによりも確実な証拠が発見されやすく、古代史研究の基本とも言えるものですが、残念なことに蘇我氏歴代の人物の墓は、誰一人として特定できておりません。

順に見て行きましょう。蘇我氏の墓と聞いてすぐに思い浮かぶのは蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳でしょう。しかし、ほんとうに馬子の墓なのか、はっきりしません。

石舞台古墳は飛鳥時代の王宮のあった場所や、蘇我氏の住居があったと言われる甘樫の丘に近く、古墳の規模も非常に大きいことから、この頃の大権力者の墓であることは疑いなく、そうなるとだれもが馬子の墓であろうと考えるのが自然です。また、ここの地名は島庄といい、「嶋大臣」という異名のあった馬子ゆかりの土地であることは疑いありません。

しかし、この古墳からは副葬品はほとんど発見されておらず、壁画もないため、被葬者を特定できる材料がありません。

そして、この古墳の最も奇妙な特徴は、倍土がすべて取り除かれ、石室が完全に露出していることです。これは自然現象では起こりえず、だれかが意図して土を取り去ったとしか考えられません。
馬子の仏教崇拝を憎んだ物部氏あたりが復讐にやったのだろう、という推測もありますが、蘇我氏は馬子以降も4代にわたって大臣を務めており、そのような乱暴狼藉ができるものではありません。

ただ、石棺が室内から取り出されて露天に雨ざらしになったまま放置されていたり、壁画が削り取られていたりと、誰かが憎しみによって起こした行動である可能性は否定できません。

しかし、ここで私が疑問に思うのは、「蘇我氏がこれほどまでに巨大な墳墓を造営するだろうか?」ということです。

日本書紀では天子をもないがしろにする悪行を重ねたようにも書かれている蘇我氏ですが、それらはすべて藤原不比等の検閲を通すための工作であったことはこれまで何度も述べてきました。また、この日本書紀の「蘇我氏への悪口」を除いて読んだ場合、清廉無私で潔癖な忠臣としての蘇我氏の姿が浮かび上がることも・・・。

そして、蘇我氏勢力の中枢にいた聖徳太子。彼は生前に「薄葬令」を出しています。
それまでの大規模な古墳づくりを止め、そうした資金は寺の造営に回すよう、呼びかけているのです。この呼びかけには馬子も賛同していたに違いなく、馬子こそがそう呼びかけた本人である可能性もあります。こんな人物が石舞台のような大規模古墳を作るでしょうか?作るわけがありません。敬虔な仏教信者であった蘇我氏一族は、自らの墓を分不相応なほどに質素なものにしていたと考えるほうが自然なのです。

したがって、石舞台古墳は蘇我馬子の墓ではなく、その他の蘇我一族の誰かの墓でもない、と私は考えます。

斉木雲州氏はこの古墳を「用明天皇の最初の陵墓であり、のちに改葬されたために土が取り除かれた」と述べています。
この古墳のスケールの大きさからしますと、私も天皇の陵墓に間違いないと考えます。

また、このスケールの墓を大王でない人物が造営した場合、それだけで不敬罪に問われるのではないか?とも思えます。臣下であるものが主君の墓より大きな墓に収まってはいけないのです。

蘇我馬子は日本書紀により、天子にしか許されない八佾の舞を舞ったとか、自分の子供を皇子と呼ばせた、とか、さまざまな悪口が書かれていますので、そんな人物なら自分の墓を天皇の墓より大きく作ることがあっても不思議はない、という考え方もできますが、よくよく考えると、そのようなことをこの時代に実行するのは不可能なことなのです。

石舞台の他、蘇我氏の墓と比定される古墳はいくつか存在します。それを列挙しますと、

・都塚古墳・・・蘇我稲目の墓という説あり。
・小山田古墳・・・蘇我蝦夷の墓という説あり。
・水泥古墳、水泥塚穴古墳・・・蘇我蝦夷、入鹿の墓という説あり。
・菖蒲池古墳・・・蘇我入鹿の墓という説あり。
・入鹿の首塚・・・飛鳥寺の境内にあり、首を斬られた入鹿の首が飛んできたという伝説あり。

・磯長谷古墳群・・・歴代天皇の陵墓であるとともに、聖徳太子、歴代蘇我氏当主の墓という説あり。斉木雲州氏によると、ここの近くの平石古墳群が歴代蘇我家の墓所です。

この中では、入鹿の首塚だけが明らかな間違いと思われます。飛鳥寺の境内にあるためにこのような作り話ができたのでしょうが、それは鎌倉時代の墓制であり、入鹿の時代の墓ではありません。

では、残りの古墳の信ぴょう性についてはどうでしょうか?

都塚古墳、小山田古墳、菖蒲池古墳は飛鳥地方にあり、蘇我氏の居住していた地域に近く、その意味では可能性が高いと言えます。造営年代もおおむね馬子や蝦夷の時代と重なっており、規模の大きさから考えると、天皇陵でなければ蘇我氏の墓ではないか?と考えるのが妥当と思われます。しかし、副葬品などの出土物はわずかで、被葬者を蘇我氏と特定できるものは何一つ出てきていません。

もしも蘇我氏の歴代当主が、一門の聖徳太子が出した薄葬礼を遵守したのであれば、副葬品が少ないことの理由になるのですが、これらの墳墓は規模が大きく、その意味では薄葬とは呼べません。副葬品はほぼすべて盗掘されたと判断するべきでしょう。

いっぽう、水泥古墳、水泥塚穴古墳と磯長谷古墳群は飛鳥の里から少し離れた場所にあります。蘇我氏の邸宅とも少し離れており、この距離感をどう見るか、ということが重要になってきます。また、このあたりは馬子が推古天皇に特に所望した葛城地方に近く、蘇我氏発祥の伝説の地のそばでもありますので、その墓所があるのは自然と言えます。

また、日常生活の場と墓地が少し離れているというのは、さほど不自然なことではなく、 さらにこの時代の蘇我氏は仏教の推進派として、常に廃仏派から命を狙われる危険がありました。墓を荒される危険もあったでしょうから、人里離れた場所に一族の墓地を選んだとしても不思議はありません。

また、これらの古墳は、馬子や聖徳太子が造営した斑鳩の里や四天王寺と言った場所に行くにも適した地勢で、飛鳥の里を通らずとも墓所に行ける位置にあります。蘇我氏は自らが政権の座を追われる時代が来ることがあり得ることを察知して、こういう場所に墓所を選んだのかもしれません。

そして、よく見て行くと、これらの古墳の造営の仕方がかなり異なるのです。これは蘇我氏のルーツを明らかにするうえで非常に重要です(続く)。

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