蘇我氏の正体㉚ そして蘇我氏と藤原氏は合体する。
これまで見てきましたように、蘇我氏の天下は藤原鎌足によって壊滅させられ、蘇我氏は歴史の表舞台から姿を消します。
しかし、蘇我氏が滅びたかというとそうでもなく、蘇我氏の末裔は「石川氏」と姓を変えて現在までその命脈を保っています。現代に生きるわれわれがもし、「石川さん」という姓の人と知り合いになったら、その人は蘇我家の末裔である可能性が高いのです。
また、蘇我氏本宗家は衰退したものの、ヤマト王権の中にあっての蘇我氏はその後もずっと血の命脈を保っています。蘇我入鹿が殺された後も、蘇我氏の血脈は天皇家の中に残っているのです。
このあたりを詳しく見て行きましょう。
乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿の本宗家が滅んだあと、親族であった蘇我倉山田石川麻呂が右大臣として、朝廷内での重職に就きます。
しかし、まもなく石川麻呂は「謀反を企んでいる」という讒言を受け、無実の罪でありながら天皇から攻められ、自害してしまいます。
日本書紀によりますと、その讒言をしたのが蘇我日向という人物で、この人は石川麻呂の兄弟です。
石川麻呂が死んだ後、蘇我日向は「大宰府の帥」という役職に就いています。
この人事は表向きには讒言による手柄に対する論功行賞ですが、体の良い左遷、島流しに近いものであったという説もあるようです。
しかしながら、大宰府の帥という役職は日本の国防上極めて重要なポストであり、一概に左遷という解釈をしてしまうのもどうかと思えます。
蘇我日向が大宰府に赴いたのは649年であり、その14年後の663年に白村江の戦いが起こっていることを考えますと、大宰府の帥という職責は極めて重いものではなかったかと考えられるのです。
この蘇我日向という人物、日本書紀では讒言事件の他、中大兄皇子と縁組するはずだった蘇我倉山田石川麻呂の娘を偸んだとも書かれており、これが真実ならば相当に悪辣な人物なのですが、私には日本書紀がまた、例の調子でありもしなかった蘇我氏の悪口を並べているとしか思えません。蘇我日向は孝徳天皇の病気平癒のために般若寺を創建したとも書かれており、そんな篤い仏教信者であった人が主君の嫁を横取りしたりするわけがないと思えるのです。また、仮に本当に中大兄の嫁(しかもその女性は自分の兄弟の娘!)を偸んでいたとしたら蘇我日向が無事で済むわけがなく、必ず反逆罪で死刑になっていたはずです。日本書紀という書物はこういうところで、よく考えればウソとわかる虚実をたくさん書いています。
おそらくは讒言事件も日向のやったことではなく、中臣鎌足の流した風聞戦略であるか、あるいはその子・藤原不比等の意向により日本書紀に(前後の脈略と何の関係もなく)挿入された「事実ではない蘇我氏の悪口」のひとつだと、私には思われます。
ともあれ、蘇我日向が朝廷の中枢から体よく追い出されたことだけは確かなようです。
これで蘇我氏の天下は終わったかのように見えるのですが、実は蘇我氏の血はまだ天皇家に脈々と受け継がれていました。それは「女系」を見ると明らかです。
蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいつらめ)は天智天皇の后となって、のちの元明天皇を産んでいます。蘇我氏の血脈は天皇家に引き継がれたのです。
さらに、石川麻呂や日向の兄弟であった蘇我連子は斉明・天智帝の時代に大臣を務めますが、その娘・蘇我娼子は藤原不比等の妻となり、藤原武智麻呂、房前、宇合という、藤原時代の黄金期を作り上げた人物を産んでいます。武智麻呂は藤原北家の祖、房前は藤原南家の祖、宇合は藤原式家の祖であり、のちに日本最大の氏族となる藤原家の開祖3人を産んでいるのです。
つまり、女系から見る限り、藤原家は武智麻呂の時代から蘇我家の血筋を取り込んでおり、女系相続の家系であった蘇我家から見ると、相変わらず天皇の側近として権力の中枢に座り続けた、ということになります。
・・・しかしながら、それにしても、あれほど手段を選ばぬ方法で蘇我氏を権力の座から追い落とした中臣鎌足の家に蘇我家の娘が嫁いだという歴史を鑑みますに、日本という国の不思議さを思わずにおれません。
蘇我娼子は、自分の親族を何人も謀殺した犯人の家に嫁いでいるわけです。これは常人の感覚でできることではなく、よほどの覚悟と信念が必要とされる行為です。
藤原氏はこの決断を下した蘇我家の娘にわざわざ「娼子」などという蔑称をつけて記述しているわけですが、そんな下衆な一族のもとに嫁いだ娼子の気持ちはいかばかりだったでしょうか?
また、蘇我氏は古事記・日本書紀にいろいろと悪口を書き立てられていますが、その悪口を書き立てた藤原氏の中に蘇我家の血が入っていることを思いますと、この悪口は天に向かって唾を吐いているようなものだと言わざるを得ません。
そして、このような縁組のありかたは、日本では古代から延々と行われていました。
猿田彦やニニギ尊の渡来してきた時代から、大陸からの渡来人は日本の先住民族としばしば衝突しますが、戦いが終わると政略結婚を行い、勝ったほうの王の息子と負けたほうの王の娘が婚姻を行って、ふたつの部族が混合してひとつになる、ということが繰り返されてきたのです。日本という国はこういった異民族混交の歴史を長く続けており、そのため現在では世界でも最も多くの民族の遺伝子を持つ種族として、遺伝子解析研究の面でも注目を浴びています。
日本という国が誰も同じような顔立ちになり、単一民族のように見えるようになったのは、663年の白村江の戦以降、外国との交流が激減し、渡来してくる人々も極めて少なくなったから、その後1400年近くはほとんど国内のみでの交配が行われたためです。われわれ日本人は皆同じように見えますが、持っている遺伝子には少なくとも数十種の民族の遺伝子が内包されています。
大陸ではこうは行きません。大陸で戦争が起こった場合、勝ったほうの民族は負けたほうの民族を皆殺しにして根絶やしにすることが常でした。特に成年男子は徹底して殺されることが多く、女性は戦利品として慰み者にされるため、大陸の人々の遺伝子には女系は多くても男系はほとんどない、という例が多いのです。
そのため、男系の遺伝子の多くは海を越えて日本まで逃げてきた人々によって伝えられています。中国、朝鮮はもちろん、遠く中央アジアやヨーロッパ方面からも、国が亡ぶときには王族たちがはるばる日本まで逃げてきているのです。そのため日本人には世界各地の王族たちの遺伝子が残されており、その中には釈迦族や、イエス様を産んだヘブライ人たちの血脈も含まれます。こう考えるとき、日本という国はどれほど高貴でおめでたい国であることか、私は戦慄の思いに駆られます。

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