蘇我氏の正体㉙ 乙巳の変がもし真実であったなら・・・。
乙巳の変。日本史の授業では必須暗記項目であり、悪漢蘇我入鹿誅殺事件として有名な政変ですが、一部には「そのような事実はなかった」とする説もあり、真相は藪の中です。
これまで私は、この政変は日本書紀の創作したフィクションとしてこの時期の歴史を分析してきたのですが、今回は「乙巳の変は事実だった」と仮定して論考を進めてみます。
この政変が本当に起こった事実だったとすれば、物語の随所に不審な点が散見されます。
まず、蘇我入鹿を誘い出した宮殿で上奏文を読み上げる役割を果たしたのが、蘇我倉山田石川麻呂と言う人物だということです。
倉山田石川麻呂は、蘇我馬子の孫にあたる人物です。蘇我家の本宗家であったかもしれない家柄で、もしも蝦夷や入鹿が滅びた場合は家督を相続して大臣になるべき家の主でした。このような人物がどうして、きわめて近い親族である蘇我入鹿暗殺事件に関与していたのでしょうか?
日本書紀の記述を追います。第24巻皇極天皇の条によりますと、この政変の謀は中大兄皇子が倉山田石川麻呂に直接話しかけ、承諾させたと書かれています。
政変当日、上奏文を読み上げる倉山田石川麻呂の全身からは汗が吹き出し、声も乱れて手も震えた、と書かれています。このあたりは迫真の描写で、作り事であるような雰囲気はありません。
いっぽう、中臣鎌足は入鹿をうまく騙して、帯びていた剣を外させます。
石川麻呂の様子がおかしいので入鹿は不審に思います。その時、入鹿に襲いかかって斬りつけたのは、外ならぬ中大兄自身でした。
ここまでの日本書紀の記述をすべて信じるなら、この政変の主犯は中大兄皇子。そして絵を描いて中大兄を動かした仕掛け人は中臣鎌足、ということになるでしょう。
石川麻呂は、言葉巧みにこのクーデターに誘われ、政変の片棒を担いだのでした。
こういう絵が描けるということ自体に、中臣鎌足という人物の底知れぬ深謀遠慮ぶりがうかがわれます。それは、人間というものの心の弱さを知り尽くした者の考える戦略であり、世知に長けた者が謹厳実直な正直者を罠にかける手口であり、自分が成り上がるためには手段を選ばない行動だからです。
鎌足はおそらく中大兄にこう進言したことでしょう。
「蘇我倉山田石川麻呂を説得して、上奏文を読ませる役割を演じさせなさい。彼は蘇我家の嫡流でありながら蝦夷や入鹿に大臣の位を奪われ、内心忸怩たるものがあるはずです。入鹿を成敗したあかつきには重職に就けると約束すれば、必ずやこの話に乗ってくるでしょう。そして、石川麻呂がいることで入鹿を安心させ、剣を外させることも可能になります。」
事実、石川麻呂は政変の後、右大臣という重職に就きます。入鹿を裏切った行為に対する論功行賞であることは疑いありません。
鎌足はまた用意周到なことに、この陰謀に先立って石川麻呂の娘を中大兄に嫁がせ、姻戚関係を結んでいます。
つまり、石川麻呂は娘婿である中大兄からこの陰謀を持ちかけられたのです。中大兄は時の皇極帝の息子でもあり、政変が成った場合には皇位を継承することが確実でした。
石川麻呂はこうした利害計算と自己の欲望に負け、鎌足の手足となったのでした。
しかし、鎌足の恐ろしさはこれからです。彼は、石川麻呂をそのまま放置するような生やさしい人物ではありませんでした。
乙巳の変から4年後の649年3月、倉山田石川麻呂の異母弟である蘇我日向が「石川麻呂が謀反を起こそうとしている」と讒言。これを信じた時の孝徳天皇は軍兵を起こし、石川麻呂を自殺に追い込みます。
蘇我日向がなぜ、このような讒言を行ったのかということに関しては、日本書紀には何も書かれておりません。このあたり、やはり鎌足が裏で糸を引いているような雰囲気を感じるのですが、真相はわかりません。
しかし、結果的に石川麻呂は殺され、残る蘇我家の後継者である蘇我日向は大宰府の帥として九州に飛ばされます。こうして、王宮の中の蘇我氏勢力はほぼ一掃されたのでした。
これらの一連の出来事が、もしも鎌足の頭の中で練られ、実行されてきたものだとすると、鎌足という男は怖ろしく狡猾で頭脳明晰な男だったということになります。鎌足の手によって、一時は天皇をも自由に指図できるほどの権勢を手中にしていた蘇我氏は政権から追い出されたのでした。
そして、よくよく留意して理解しないといけないのが、これら、今まで申し上げてきた一連の事象が、日本書紀の記述そのままだということです。
つまり、日本書紀は、鎌足や中大兄の悪行を隠すことなく正確に記述しているのです。
このことを、これまで多くの歴史学者が読み違えていた、と言わざるを得ません。
蘇我氏を悪役と見る解釈は、日本書紀に散りばめられた蘇我氏の悪行の記述によって生まれたものです。しかしながら、その悪行というのをひとつひとつ検証してみますと、それらは歴史の流れとはまったく無関係で、取ってつけたようなただの悪口であり、事実であるとは到底考えられないものがほとんどなのです。このことをよく理解し、蘇我氏の悪口の部分を抜いて日本書紀を読み返せば、そこにあらわれる歴史物語は、鎌足と中大兄による下剋上の陰謀物語に姿を変えるのです。
この意味で日本書紀は、藤原不比等という鎌足の嫡孫の厳しい管理を受けながらも、真実を書き残そうと懸命の工夫を凝らした書物であると言えます。鎌足の悪行を直接は書かず、蘇我氏の悪口は大々的に喧伝することで不比等の了承を取り、そのため物語にいろいろと不自然な箇所が生まれましたが、そのまま世に出すことに成功しました。
古事記にも同じような側面がありますが、われわれはこれらの書物を読む時、そこに組み込まれている暗号に気づかねばなりません。
日本書紀に書かれた蘇我入鹿最後の言葉は「私に何の罪があるのか?そのわけを言え」でした。
死の間際に追い込まれた人間は、そうそう本心でないことを口にすることはありません。
日本書紀はこの点でも、史実を正しく伝えていると言えます。
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