蘇我氏の正体㉘ 木刕満致は蘇我満智と同一人物か?
蘇我氏のルーツを探る上で非常に重要な仮説があります。それは門脇偵二氏が「蘇我氏の出自について」という論文で発表した、「百済の木刕満致と蘇我満智は同一人物である」という説です。
この説はその後の蘇我氏研究に大きな影響を与えており、これを否定する人もいますが、肯定する人のほうが多いようです。この説には決定的な証拠はなく、あくまでもひとつの仮説に過ぎないのですが、今回はこの説が支持されている理由を探って行きましょう。
朝鮮の史書「三国史記」に「木刕満致」という名前が登場するのは475年に高句麗が百済を攻め、首都漢城を奪った時のことです。
百済の高官であった木刕満致はこの時、王子であった文周王を連れて熊津に落ち延び、そこを新たな首都として国の再興を期します。
しかし、478年、内部抗争が起こって文周王は暗殺され、同時に木刕満致は姿を消します。
いっぽう、日本書紀には294年の条に「木満致」という名前の人物が登場します。
門脇説はこの「木満致」と「木刕満致」が同一だとするものです。たしかに音韻や文字は非常に似通っていますが、年代には182年もの違いがあります。
門脇説を否定する人の言い分は、この「年代が合わない」という論拠によるものですが、肯定する人は、この年代の違いは日本書紀の捏造・改ざんであり、実際に木刕満致が生存した時代は三国史記の記述のほうが正しい、としています(奥野正男氏ら多数)。
実際、私がこれまでに調べてきた中でも、日本書紀が蘇我氏の行跡を改竄・捏造している例というのは枚挙にいとまがありません。日本書紀が蘇我氏について書いてあることの大半は虚実であり、特に蘇我氏の悪口を書いてある部分はたいてい捏造であると考えても良いくらいなので、この部分も捏造と考えても良い、と私も判断します。
つまり、日本書紀は蘇我満智の渡来時期を意図的にずらし、蘇我氏と無関係のように見せかけるため、わざとその登場年代を182年も遡らせている、と考えられるのです。
さらに、日本書紀は蘇我満智のことをこうも書いています。
「王の母と姦通し、多に禮無きを行す」。
これは蘇我馬子、蝦夷、入鹿を貶めた手法と同じで、とってつけたような悪口です。
日本書紀をよく読むと、蘇我氏に対するこういう悪口が散見されます。それはたいてい他の史書、たとえば中国の暴君の逸話などから引用されたエピソードの切り張りであり、この部分を除いて日本書紀を読むと、蘇我氏の代々の行跡というのはまことに素晴らしいものなのです。
そのため、悪口のほうを信じるか、あるいはその他の部分を信じるかで、読んだ人によって蘇我氏の印象は違ってきます。研究者の中には蘇我氏の冤罪に気づいている人も多いのですが、世間的にはまだ、蘇我氏≒悪党というイメージが根強く残っているようです。
では、蘇我満智(木満致)がどういう人物であったのか?ということになりますと、日本書紀の(悪口以外の)記述では、日本から新羅に兵を進め、加羅諸国を平定した、と書かれています。つまり、満智は日本の将軍であり、当時新羅に奪われていた任那地方を含む加羅諸国を取り返したという大功を上げているのです。こういう大きな史実はさすがの日本書紀も捏造できないのです。
いっぽう、「三国史記」の「木刕満致」は百済の将軍であり、百済が高句麗に攻められて首都漢城を奪われたとき、王子文周王を守って熊津まで逃げ、そこで体制の立て直しを図っています。木刕満致が日本に来て蘇我満智となったのはその後だと思われ、彼は百済復興のため、まずは同盟国であった日本に来て、日本の力を借りて新羅に奪われていた伽耶諸国を取り戻したものと思われるのです。
ここから先は私の推測になって行きますが、木刕満致という名前の「木刕」は「木浦」のことではないかと思われます。木浦というのは朝鮮半島の南西の先端部にある町で、現在でも日本風家屋が多く残り、古くから日本と縁が深かった地域です。
蘇我氏の祖先は古代、なんらかの理由でこの地に住み着き、百済国の有力者として重きをなす存在になって行ったと思われ、満智の頃には国王を補佐する職務にあったと考えられるのです。この姿にはひとつの特徴があり、「王と並ぶほどの実力者でありながら決して王とはならず、王を補佐する職務に甘んじる」という姿勢は、満智の子孫の馬子、蝦夷、入鹿まで続き、蘇我氏という一族の性質となっています。
こういう姿勢を貫いている氏族には、他に秦氏が挙げられます。秦氏は蘇我氏と同じく、シルクロードの西方に起源を持つ一族と思われ、彼らは「王となった一族はいつか必ず滅びる運命にある」ということを、身をもって知っていたので、自分が王になることは決してなかった、と考えられるのです。
ところで、「満智」という名前はいかにも仏教臭い名前で、また、たいへん響きの良い名前でもあります。
満智の子孫たちが、韓子、馬子、蝦夷、入鹿と、蔑称と思われるような名前で呼ばれているのとは違って、どうもこの名前だけは本名、あるいは僧名で書かれているようです。この「満智」という名前は、仏教僧の中でもかなり高徳の僧にしか許されない名前ですので、蘇我氏は満智の時代からすでに、熱心な仏教信者であったと思われるのです。
三国史記と日本書紀の記述からもう一度、蘇我満智の生涯を辿ってみますと、彼は百済国の宰相であり、日本に来てからは大将軍となって百済遠征の総指揮官となった人物で、見事に新羅から伽耶諸国を奪還し、任那を復興させた大功臣であり、日本、百済両国にとって、この時代最大の業績を上げた名臣と言えます。こんな人物が「王の母と姦通」など、するわけがないのです。
伽耶平定の褒賞として、蘇我満智は飛鳥地方の一角に領土を与えられたものと思われます。そこは彼の父である蘇我石川宿禰が居住していた石川という地域と王宮を挟んで反対側の地域にあり、武内宿禰ゆかりの葛城地方にほど近い場所でした。
今に伝わる系図では、蘇我石川宿禰の父は武内宿禰となっていますが、これは事実ではなく、後世の創作だと思われます。そもそも、武内宿禰の生存年代と蘇我満智の生存年代は100~200年ほど離れていると思われ、この間が石川宿禰一人しかいないというのはかなりおかしいと考えねばなりません。
しかし、蘇我家と武内家が無関係かというとそうでもなく、満智のひ孫にあたる蘇我稲目は中宮寺の天寿国曼荼羅繍帳で「巨勢稲目」と表記されていることから、稲目の父・蘇我高麗が巨勢家の女性と縁組して、生まれた子供が稲目だったと考えられるのです。
巨勢家はれっきとした武内宿禰の子孫であり、ヤマト王権内でも代々、大臣の家柄でした。
蘇我氏は巨勢家と縁組することにより、日本での地位をゆるぎないものにしたわけです。
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