蘇我氏の正体㉖ 蘇我入鹿とはどういう人物だったのか?(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㉖ 蘇我入鹿とはどういう人物だったのか?

蘇我入鹿と言えば、われわれは高校の日本史の必須暗記用語として、彼が斬られ、殺害された政変を「乙巳の変」や「大化の改新」として覚えさせられたものです。

それが最近では、蘇我入鹿という人物はいなかったとか、乙巳の変という政変そのものが発生していない、という説まで出ていて、この頃の日本史の解釈そのものが根底から揺らいでいるような状態にまでなってきています。

どうやら日本書紀はこのあたりの記述に大規模な改ざんを施しているようなのですが、それは具体的にどんな改竄なのか?…ということを知るため、ひとまず日本書紀の記述を素直に読み解いて行きましょう。そして、その内容に疑問を感じる箇所がみつかれば、そこが疑うべきポイントです。

蘇我入鹿が初めて日本書紀に登場するのは642年、皇極天皇即位の時です。
「大臣の子である入鹿またの名を鞍作が自ら国政を執り、勢いは父よりも強かった。このため、盗賊も恐れをなし、道の落とし物さえ拾わなかったほどである。」

また、「藤氏家伝」には、僧旻が入鹿を評して、
「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」
と言った程の秀才だったと書かれています。

この二つの記述から察しますと、入鹿はたいへんな秀才で、なおかつ実務の才もあった人物のように思えます。・・・ところが、もうこのあたりから日本書紀の記述は怪しいのです。

と言いますのは、この部分の記述、特に「盗賊も恐れをなし~」の部分が中国の歴史書である「十八史略」からペーストされたもの、という指摘があるからです。(倉本一宏「蘇我氏-古代豪族の興亡」/中央公論社/2015年)。

・・・すると、日本書紀は最初から史実ではない、「作られた入鹿像」を書いていたことになります。

いっぽう、「藤氏家伝」というのは、藤原一族の歴史をまとめたものですから、藤原鎌足の政敵と言える入鹿のことを褒めて書く必要性はありません。それなのに入鹿の秀才ぶりが記述されているということは、実際の入鹿がそれほど頭脳明晰だったということでしょう。

このあたり、蘇我入鹿はその登場シーンからして、「自信家で強欲な専制者」というイメージを塗りつけられていますが、われわれは「実際はそうではなかったのではないか?」と考えねばなりません。

日本書紀の入鹿への悪口はさらに続きます。曰く、「私的に紫冠を受けた」「皇族にしか許されない八佾舞(はちいつのまい)を舞った」「墓を作るのに上宮家の乳部を使った」「わが子を皇子と呼んだ」等々、言いたい放題。

しかし、現在ではこれらの記述もすべて否定されています。倉本一宏氏らの指摘するところでは、これらの記述には中国の「呉志」や「礼記」「晋書」などからの引用がふんだんにあり、日本書紀は入鹿の行跡を捏造するために、これらの漢籍から古代中国の王臣が行った悪行を拾い出し、それをあたかも入鹿の行ったことのようにペーストして記述されたものらしいのです。

われわれが日本書紀を素直な心で読む時、こうした入鹿中傷の文章に触れ、どうしても入鹿イコール逆臣、というイメージを抱いてしまいます。が、これは日本書紀の作ったトリックであり、実際の入鹿像とはほど遠いものでした。

しかしながら、日本書紀というのは面白い書物で、こういう改ざんを随処に施しながらも、よくよく読めば真実がそこはかとなく匂ってくるような書き方がなされています。

蘇我入鹿の真の姿がうかがえるのは、乙巳の変において斬りつけられた入鹿が今際の際に叫ぶ最後の言葉においてです。

「日嗣の位にお出でになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え」。

これから死んで行こうとしている人間は、そうそう考えたようなウソを言うものではありません。入鹿のこの言葉は、入鹿その人が実直な性格であり、生涯の行動もまた天皇のために捧げてきたものであることを示しています。日本書紀にこの記述があるということは、書紀が自分のついたウソを自分で白状しているようなもので、「これまでに書いてきた入鹿に関する悪口は全部ウソでした。」と言っているのと変わりません。

さて、これで蘇我入鹿に関する嫌疑はだいたい晴れたと思われるのですが、実はあとひとつだけ、入鹿を大罪人としなければならない嫌疑が残っています。
それは、「山背大兄王殺害」という嫌疑です。

日本書紀によれば、この事件は入鹿が画策し、巨勢徳太臣や土師娑婆連らに山背大兄王を襲わせ、自害に追い込んだということになっています。
しかし、この事件にもまた、多くの学者から「改竄である」という指摘がなされています。
たとえば梅原猛氏の指摘では、この暗殺計画には軽皇子、すなわち後の孝徳帝が加わっていることが「上宮聖徳太子伝補闕記」という書物に書かれているそうです(「隠された十字架」/新潮社/1972年)。
軽皇子が加わっているということは、彼の側近であった中臣鎌足も加担していたということです。そして、山背大兄王がいなくなれば誰が一番得をするかというと、それは軽皇子にほかなりません。事実、この事件の後、最大の政敵のいなくなった彼は、めでたく大王として即位しているのですから。すると、この事件のほんとうの首謀者は・・・。

つまり、「山背大兄王殺害事件」は、鎌足の画策した殺人事件を入鹿が行ったかのように改ざんして書かれた物語だったというわけです。

加えて、私自身が考えますに、入鹿が山背大兄王の命を狙うということ自体、非常に不可解です。なぜなら入鹿と山背大兄王は、同じ蘇我馬子という祖父を持つ親戚同士。そのうえ山背大兄王の父は、あの聖徳太子。大王家の血筋からも蘇我家の血筋からも本流中の本流。
これほどまでに正当な大王位後継者は他になく、そんな人物を、同じ蘇我家の嫡男であった入鹿が手にかけようなどと考えるはずもない、と思えるのです。

さらに、この時代には入鹿の父である蘇我蝦夷が健在で、入鹿はまだ大臣にもなっていませんでした。名門とはいえ大臣でもない若造が、巨勢や土師といった大臣・連に対して命令できるものではありません。日本書紀の記述にはこういう細部にも無理が見られるのです。

梅原猛氏はさらにこう続けています。「山背大兄王の悲劇から二月と経っていない時、鎌足は神祇伯という、神事を司る最高職に推されている。これは陰謀者に対する論功行賞ではなかろうか。」

コメント

タイトルとURLをコピーしました