蘇我氏の正体㉕ 蘇我蝦夷に見えていた風景。
蘇我蝦夷を語るとき、忘れてはならないことは、彼の母親が物部守屋の妹・太姫だということです。蘇我氏の代表のような存在の蝦夷ですが、実際は蘇我家と物部家の両方の血を引く人物でした。
蝦夷が生まれる以前から、蝦夷の父・蘇我馬子と物部守屋はすでに険悪な中になっていたようです。これは一般的には仏教を支持した蘇我氏と神道を支持した物部氏による宗教対立が原因と考えられていますが、日本書紀をよく読んでみると、もう少し人間臭い実態が見えてきます。
書紀によると、のちに推古天皇となる炊屋姫が若かった頃、次期大王位を狙っていた穴穂部皇子は炊屋姫を狙って夜這いしようとして失敗、このとき炊屋姫の屋敷を守っていた三輪逆を逆恨みして殺そうとします。
この命令を実行したのが物部守屋ですが、蘇我馬子はこの命令には従わず、動きませんでした。そればかりか、守屋と一緒に三輪逆討伐に向かおうとしていた穴穂部皇子を引き留め、「王者は刑を受けたものを近づけないと申します。自らお出でになってはいけません。」と言って諫め、皇子が罪に手を染めるのを阻止しています。
この行為は一般的な馬子のイメージとはほど遠く、そこにあるのは、皇子の行く末をよく考えて軽挙をいさめようとする真の忠臣の姿です。
一方の守屋の行動は、皇子の命令に忠実ではあるのですが、そこには次期大王位に就く人物に取り入っておきたい、という打算が見え隠れします。この打算はのちに公然としたものになり、守屋は穴穂部皇子を担いで蘇我氏と戦うことになるのですが、その発端はこの「夜這い未遂事件」から始まっていました。
三輪逆を殺して引き上げてきた守屋に対して馬子は、「天下はほどなく乱れるだろう」と言います。すると守屋は「おまえのような小物にはわからぬことだ。」と言い返しました。
日本書紀のこの部分は非常に興味深いところです。
一般的に蘇我馬子と言いますと、天皇をもないがしろにする専制を極めた人物のように思われていますが、日本書紀のこの部分を見る限り、馬子の性格は私心なき忠臣と言って良いもので、守屋のほうがよほど俗物で、自分の保身のために目先のご機嫌取りに必死になっているように思えます。
その小物の守屋が馬子に向かって「小物」と侮辱的な言葉を吐いているところには、この時期の守屋のあせり、馬子に対するコンプレックスを感じます。
物部氏と言えば、神武天皇以来、ヤマト王権の中枢に座り続けてきた名門の家柄です。
が、この次代には蘇我氏の躍進が目覚ましく、二代にわたって王室に娘を嫁がせることに成功した蘇我馬子は、大王の外戚として圧倒的な影響力を持っていました。
守屋の職位は大連。大臣であった馬子とは同等の地位にあった職掌ですが、実質的な力は馬子のほうが上だったでしょう。
守屋は新興の蘇我氏の存在を疎ましく思ったことでしょう。「この新参者めが」というジェラシーの気持ちが少なからずあったと思われます。
このあたり、本当に歴史を動かした要因は、神道と仏教の対立という大義名分によるものではなく、成り上がった者に対する嫉妬心と、名門に生まれた者ゆえの焦り、という、きわめて人間臭い動機であったように思われるのです。
馬子が守屋の妹を娶ったのは、このような事件が起きた後のことだったようです。
これはヤマト王権の安定をはかるための政略結婚だったとみて間違いないと思われます。
現代に例えれば、財務大臣と防衛大臣が喧嘩して一触即発になっているようなものですから、大王家はじめ周囲の臣、連たちが心配してこのような縁組をさせたものでしょう。
このような時代環境の中で、蘇我蝦夷という人物は誕生したのでした。
蘇我蝦夷は、こうして、言わば蘇我家と物部家の仲を取り持つ絆として生まれてきたのですが、不幸にも彼の誕生後も両家の不和は解消せず、益々悪化して行ったのでした。
その後まもなくして用明帝が崩御されたこともあり、その次の大王を巡って蘇我氏と物部氏は全面戦争に突入して行きます。
その戦いは「丁未の乱」と呼ばれ、蘇我氏の完全勝利で終わり、物部氏はこれ以降、政治の表舞台から遠ざかることになるのですが、日本書紀におけるこの戦いのいきさつの描写は真実性を疑問視する意見もあり、鵜呑みにはできません。
斉木雲州氏の本には「物部勢が用明帝を暗殺した」と書かれています。崇仏派の用明帝であましたので、そうだった可能性はあります。斉木氏はその犯行現場を最近発掘された「島ノ宮跡(池辺宮)」と断定しており、火災の跡も発見されていると書いています。
斉木氏はさらにこの傍証として、用明帝の后であった間人皇后が丹後まで逃れ、戻ってこなかったことを挙げています。
そして、丁未の乱の原因は、仏教対神道の対立ではなく、用明帝暗殺の犯人である物部守屋が処分されなかったことに対する諸臣の怒りであるとしています。
日本書紀の記述では、この戦いでは蘇我軍のほうに主だった皇子と臣・連のほとんどがついており、斉木氏の主張のほうがしっくりと来ます。当時はまだまだ仏教が全面的に支持されていたとは言えない時代であり、宗教対立が原因であれば、物部軍に加わる者のほうがはるかに多かったと思えるからです。
それでも、当時の軍事全般を掌握していた物部軍はやはり相当に強かったのでしょう。
馬子や厩戸皇子らは、この戦いの前に戦勝祈願して、「勝利を得た暁には必ず四天王寺を建て、末永く祀ることを誓う。我らを勝たしめ給え」と祈願しました。
これが現在も大阪にある四天王寺の縁起です。この時、「四天王」という仏教の神様が日本に入ってきていますが、これらはもともとヒンドゥー教の神様だったらしく、インドから中国に伝わる過程で習合したもののようです。
ともあれ、戦いの神、現世利益を与える神として四天王という「天」部の神様が日本で崇拝されるようになったのは、この丁未の乱が発端であると言えます。
日本書紀には、滅びた守屋の財産を没収した蘇我氏がますます肥大したように書かれていますが、この頃の蘇我氏はほとんど自費で巨大な伽藍を持つ寺を次々に建立していたようですから、実際にはいつも金欠状態に近かったのではないかと思われます。
・・・ともあれ、丁未の乱の頃にはまだ幼少であったと思われる蘇我蝦夷の目には、この次代はどのように映っていたことでしょう。
自分の父が、母の兄を殺す戦いを、蝦夷は見ていたのです。生まれながらにしてこれほどの試練に見舞われる人の例を、私はあまり知りません。
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