蘇我氏の正体㉔ 蘇我馬子は本当に悪党だったのか?
蘇我馬子。蘇我氏の時代を代表する人物であり、蘇我氏悪党説の代表とも言える人物。
しかし、斉木雲州氏によれば、この名を持つ人物は歴史上存在せず、実際にいた大臣・石川麻古という人物をモデルに日本書紀が創作した人物ということになります。
斉木説が真実なら、日本書紀の蘇我氏に関する記述はほぼすべて作り話、ということになります。ちなみに古事記においての蘇我氏の記述は、馬子の父である蘇我稲目についてほんの少し触れたところで記述が終わっており、馬子、蝦夷、入鹿についての記述はありません。
うがった見方をすると、日本書紀とは、この時代の真実を隠蔽するために、実際には存在しなかった「蘇我氏三代」を捏造し、架空の物語を書くことを目的として新に作られた書物である、という考え方もできるのです。
里中満智子さんの漫画「天上の虹」においては、蘇我馬子はでっぷりと太った、顔中髭だらけの巨漢として登場します。現代における馬子のイメージもだいたいそのようなものと思われ、悪党としてのイメージが定着していると思われますが、実は、彼こそは「日本に仏教を定着させた最大の功労者」である可能性が高く、少なくともただの悪党とは言えない人物なのです。
では、日本書紀に書かれた蘇我馬子の行跡を追って行きます。
敏達天皇が即位したとき、馬子は大臣として、父・稲目に代わり出仕します。
この「馬子」という名前ですが、斉木説を抜きにしても本名とするにはおかしな名前で、偽名あるいは俗称であろうと思われます。蘇我氏は代々、大陸から軍事用の馬を輸入して、繁殖と調練にいそしんでいた氏族なので、こういう呼び方をされていたのかもしれません。
また、正確には石川姓なのに蘇我と呼ばれたのは、石川家と蘇我家が同根で、お互い近縁な家柄だったことから、石川氏を蘇我氏と呼ぶことがあった可能性もあります。
こういうところ、日本書紀はウソをつくにしろ、まったくのデタラメではなく、事実に近いウソをついているようなところが随所に見受けられます。
敏達帝の治世時、馬子は百済と佐伯連から仏像を一体ずつもらい、高句麗僧・恵便を招聘、仏殿を造営して仏法を始めます。これがわが国で記録に残っている仏教の教えの始まりです。日本書紀には「石川の家に仏殿を造る」とあり、このあたりにも蘇我氏とはほんとうは石川氏のことではなかったかな?と思わせるものがあります。
しかし、このことが神道派であった物部守屋、中臣勝海という人々の反発を生みます。
物部、中臣らは、そのとき流行していた病の原因が馬子の仏教崇拝にあると敏達帝に訴え、寺を焼き、尼僧を鞭打ったりしました。(※このとき、すでに中臣の姓を持つ人物が蘇我氏の敵として出現していることにご注意ください。のちの中臣鎌足の代まで続く蘇我氏との確執の発端が早くもここに見えるのです。また、馬子がこれだけのことをされても、このときは報復せずにじっと耐え忍んでいることにも注意が必要です。)
時代が用明帝の治世となった頃、蘇我氏と物部氏の対立は避けられないものになって行きます。用明帝を推挙していた蘇我氏に対して、物部氏と中臣氏は穴穂部皇子を支持しました。
この穴穂部皇子は、少し前、炊屋姫(のちの推古天皇)を犯そうとして、夜、宮中に入り、三輪逆という人物に追い返された、という事件を起こしていました。
穴穂部皇子は三輪逆を恨み、殺そうとします。
蘇我馬子と物部守屋は三輪逆殺しを命じられますが、馬子は動かず、守屋は軍を動員して三輪逆を殺します。この事件で蘇我対物部の敵対関係は決定的なものになりました。
俗に思われている仏教対神道の対立ではなく、夜這いを邪魔されたことに対する逆恨み、というくだらない理由です。しかし、これはまた、次期大王位を巡っての対立だったのです。
三輪逆が殺されたときにはすでに、用明大王が即位しておりました。この大王は崇仏派でしたが、わずか二年で崩御します。このとき守屋はさっそく穴穂部皇子を担いで次期大王にしようとします。これに対して馬子は的臣歯噛らを動員して穴穂部皇子を殺し、さらに穴穂部皇子と仲の良かった宅部皇子を殺害します。
蘇我馬子の行跡のうち、悪行と考えられるものの第一がこの事件です。しかし、馬子はこのいくさを起こす前に炊屋姫(後の推古天皇)の詔を受けています。つまり、大王家からの命令を受けての行動であり、馬子の単独行動ではありません。
そして翌年、丁未の乱が起こります。
この乱は、ヤマト王権内において代々軍事を掌握していた物部氏と、代々財政を掌握していた蘇我氏の争いでした。文字通り天下を二分した戦いだったでしょう。
この戦いで物部守屋は戦死し、蘇我氏は勝利しました。
さて、問題はその後です。
日本書紀によりますと、蘇我馬子は用明帝の後、崇峻帝を即位させますが、4年後にその崇峻帝を殺害してしまうのです。
馬子を悪党として断定するなら、なによりもこの「崇峻天皇殺害」の罪が決定的な要因、ということになります。日本書紀にはこれが馬子の犯行であるとはっきり書かれているのですが、さて、これが事実かどうか? 実は大いに疑問があるのです。
まずなによりも、崇峻帝は馬子の甥、という間柄です。馬子にしてみれば、崇峻帝が大王位にいるかぎり自分は外戚として権力をふるえるわけで、こういう、自分にとってなくてはならない大事な人物を殺すというのは不可解です。
第二に、崇峻帝殺害後も馬子は大臣としてその職位を継続し、権勢をふるっていることです。ほんとうに馬子が崇峻帝を殺していたのなら罪に問われないわけはなく、間違いなく死罪になっていたでしょう。この時代、蘇我氏が大臣だったのですが、蘇我氏以外にも臣・連はたくさんいました。馬子だけでなにもかも自由にできる組織ではなかったのです。
崇峻帝暗殺のいきさつを斉木雲州著「上宮太子と法隆寺」から抜粋します。
「崇峻大王治世4年春、竹田皇子が暗殺された。犯人はわからずじまいだった。
しかし、大后(後の推古天皇)は崇峻帝の妃・小手子が犯人だと考えた。彼女の産んだ蜂子皇子を次の大王にするための犯行だと考えたからであった。
大后は石川麻古(馬子)に秘密の指示を与えた。麻古は東漢直駒という人物を呼び出し、秘密の指示をした。崇峻5月、東漢駒は崇峻大王を殺した。麻古大臣は東漢駒を処刑した。」
以上が斉木氏の本の内容です。日本書紀の記述とは微妙に違っており、斉木氏は蘇我馬子が犯人だとは書いておりませんが、そうとも受け取れる書き方をしています。ただ、実行犯ではなく、太后の命を受けて指示を出しただけ、ということにあります。つまり、臣下として帝の命令を遂行したということであり、実際の犯行は大后(推古帝)の意思によって行われたこと、ということになります。
こうして見て行くと、蘇我馬子はけっして独裁者でも横暴な性格でもなく、むしろ君命に忠実な一家臣であったのではないか?とも思えてきます。
歴史上の人物というのは、解釈の仕方によって英雄にも悪党にも変化します。しかしながら蘇我馬子という人物だけは、その本名が石川麻古であったことと、仏教普及に比類なき功績があったことだけは忘れてはならないことでしょう。
コメント