蘇我氏の正体㉓ 蘇我氏の評価は現状でどうなのか?(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㉓ 蘇我氏の評価は現状でどうなのか?

 われわれ日本人は、中国・高校で日本史の時間に蘇我氏のことを稀代の悪役として教えられます。その代表的な例が蘇我馬子・蝦夷・入鹿の三代ですが、なぜ蘇我氏が悪者扱いされるかというと、日本書紀の記述がそう思わせるような書き方になっているからです。
書紀に書かれている内容は、・・・蘇我氏は天皇を暗殺した。外戚として専横をふるった。皇位を横取りしようと狙っていた・・・等々、加えて蘇我氏の悪行をまとめて整理しているような箇所もあり、そのために蘇我氏というと、悪行を重ねて最後には誅殺された愚かなる氏族、という認識が今でも主流になっています。

 しかし、このサイトを訪れるような古代史好きな方々なら、このような見方には異説がいくつもあることをご存じでしょう。むしろ、調べれば調べるほど、蘇我氏の罪は冤罪であり、悪役どころか、たいへんな業績を上げた名族ではなかったか?と思えてくるのです。

 たとえば、仏教の伝来において蘇我氏の果たした役割は極めて大きく、蘇我氏なしでは日本に仏教は定着しなかったと言って良いくらいです。彼らはいくつもの寺を建立し、高僧を招き、仏像や経典を求め、日本に仏教を根づかせました。このことを成し遂げる途上で、対立した神道派の氏族から命を狙われたり、寺を焼かれたり、仏像を壊されたり、一族の何人もを殺されたりしたのですが、それでも彼らは仏教の推進を止めませんでした。

 また、聖徳太子の業績とされる様々な偉業、「冠位十二階」「十七条憲法」の制定等も蘇我氏の業績です。この時代、聖徳太子だけでこのような改革が行われることはなく、必ず蘇我馬子や蝦夷の承認と協力が必要でした。そもそも、聖徳太子自体が蘇我家本宗家の嫡流の生まれであり、太子だけが偉くてその他の蘇我氏一族はみな悪者、ということはありえないのです。

 そして、日本書紀が蘇我氏のことをまったくの悪役として描いているかというと、実はそうでもなく、むしろ、言葉を尽くしてほめちぎっているような箇所もあり、蘇我氏の悪者としてのイメージを定着させたのはどうやら日本書紀ではなく、それを曲解して日本史の教科書を編纂した歴史学者のほうではないかという気がしてくるのです。
たとえば、蘇我馬子の死について、日本書紀はこう記しています。

「夏五月二十日、馬子大臣が亡くなった。桃原墓に葬った。大臣は蘇我稲目の子で、性格は武略備わり、政務にも優れ、仏法を敬って飛鳥川の辺りに家居した。」
                       (日本書紀第二十二巻 推古天皇条)

 書紀の馬子評はこうなのに、どうして馬子=悪党というイメージが出来上がったのでしょうか?

 また、「乙巳の変」についての一般的解釈も、通常は「逆臣・蘇我入鹿を誅殺した正義の中大兄と鎌足の勧善懲悪の物語」であるように受け取られていますが、果たして本当にそうなでしょうか? 日本書紀の記述を実際に追って行きましょう。

 日本書紀における乙巳の変の記述を時系列で並べますと、

① 中大兄は倉山田麻呂に蘇我入鹿謀殺の計画を説き、協力を依頼した。
② 蘇我入鹿が出仕すると、鎌足は俳人(滑稽なしぐさで歌舞などをする人)に教えて騙し、剣を解かせて丸腰にした。
③ 倉山田麻呂が上表文を読み終わるころ、隠れていた中大兄は掛け声とともに入鹿に斬りつけた。
④ 入鹿は「私に何の罪があるのか?そのわけを言え」と叫んだ。
⑤ 天皇は「これはいったい何事か?」と中大兄に詰問した。中大兄は「入鹿は皇子たちをすべて滅ぼして帝位を傾けようとしています。入鹿をもって天子に代えられましょうか?」と言った。

これが日本書紀に書かれた入鹿殺害のシーンです。この事件が後日裁判にでもなっていたら、中大兄側の弁護士が「入鹿のクーデターを未然に食い止めた中大兄と鎌足の義挙です」と主張してもおかしくありませんが、入鹿側から見たらどうでしょう?

入鹿側の弁護士ならこう言うでしょう。「中大兄と鎌足は共謀して、何の罪もない入鹿を騙し、剣を奪って丸腰にさせた後、物陰から突然入鹿に飛びかかって惨殺しました。彼らがこのような行為に及んだのは次期大王位を狙って政敵を抹殺する目的があったために相違なく、その残虐性、計画性において、ひとことの弁解の余地もありません。」

いかがでしょうか? 皆様ならどっちの主張が正当だと思われるでしょう?
 私はどう考えても、中大兄のほうが理屈の通らない言い訳をしているとしか思えません。

 さらに、この時の入鹿に大王位簒奪の心があったかといいますと、そんなことは考えられません。蘇我家はすでに大臣家として、大王家の外戚として、確固たる地位を築いていました。自分が自ら大王になる必要など、どこにもなかったのです。
また、入鹿がたとえ蘇我系ではないすべての皇子たちを殺害したとしても、それで入鹿が大王になれるわけでもありません。大王になれるのは大王家の血筋を引く王族に限られ、大臣家の人である入鹿は絶対に大王にはなれない人物なのです。この意味で、中大兄の言い分は最初から論理破綻しています。

 このように、注意深く見て行くと、日本書紀という書物は「本当に悪いのは誰だったのか?」ということを明確に示唆してくれているのです。
それなのに、この事件を「大化の改新」などと称して、中大兄らの一連の大改革のひとつとして捕らえ、そのように国民に流布したのは「学校で使われている日本史の教科書」です。

日本史の教科書は、それが初めて編纂されたときから軍国主義の支配を受け、日本国民全体が忠実な兵隊になるような脚色を施されました。特に古事記・日本書紀からは軍国主義教育に都合の良い部分だけが取り出されて加工され、絶対に戦争に負けない日本、というイメージを国民に植えつけるように作られて行ったのです。萬世一系で滅びたことのない皇室、元寇のような他国からの脅威が来ると神風が吹く神に守られた国、皇室のそもそもの祖先は神であった・・・等々、さまざまな伝説が作られました。
困ったことに、そうした教科書の記述は2023年の現在でもほとんど変更されることなく、そのまま残されているのです。
このような教科書編纂の偏った歴史解釈の犠牲になっているのが蘇我氏一族です。

繰り返しになりますが、蘇我氏一族は日本に仏教文化を根付かせた大功労者であり、ヤマト政権内においては代々、大王の片腕として優れた政治手腕を発揮した能臣であり、大王に背いたことなど一度もない忠臣でもあったのです。
ただ、このことはまだ、一般的には理解が進んでおりません。

日本書紀を読み進めてゆくと、蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したり、蘇我氏が王族を殺すシーンがいくつか見られます。このため蘇我氏悪党説は根強い支持を持っているのですが、実はこれらの事件は日本書紀による捏造であり、実際には蘇我氏はまったく罪を犯していないのです。次回より、この蘇我氏の冤罪について詳細に見て行きます。

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