蘇我氏の正体㉒ 藤原鎌足の実像。
前回は藤原鎌足の義父である中臣御食子の悪行を見て参りました。今回は鎌足のほうの悪行を見て行きましょう。日本書紀がこの悪行をどれほど隠蔽し、歴史を改竄しているか・・・それはもはや改竄というより、全く別な作り話をしていると言ったほうが的確と言えるほどのものでした。
鎌足の悪行、その(一)は「山背大兄王暗殺」です。
今回も情報リソースは斉木雲州著「上宮太子と法隆寺/大元出版」から採っています。
日本書紀によりますと、643年、巨勢臣徳太と土師連裟婆という人物が山背大兄王を追い詰めたことになっていますが、斉木説では鎌足の軍勢が斑鳩宮を襲い、死に至らしめたとされています。
この斉木説にも確たる証拠はないようですが、推理小説を読む時のように「この人物が死ぬとだれが一番得をするのか?」ということを考えた場合、それは鎌足と中大兄皇子になります。
今日の一般的な解釈では、「蘇我入鹿が殺した」ということになっていますが、これはおかしいと考えなければなりません。山背大兄王はれっきとした蘇我氏系の嫡流。同族の入鹿が手にかけるわけがないのです。このあたり、教科書の記述は日本書紀の記述をそのままなぞったような内容になっており、探求が甘いと言わざるを得ません。
鎌足の悪行、その(二)は、「乙巳の変という架空事件の捏造」です。
もっともこれは、日本書紀を編纂した人物の責任ですから、悪いのは息子の藤原不比等ということになりますが・・・。
斉木氏が「乙巳の変はなかった」と主張する理由は次のようなものです。
乙巳の変の主役の一人である蘇我蝦夷という人物がそもそも存在していなかった。蝦夷のモデルとされたのは石川雄正という石川家出身の大臣だが、この石川雄正は641年に他界しており、乙巳の変が起きたとされる645年には存在していない。
蘇我入鹿も同様に架空の名前で、モデルとされたのは石川雄正の子供の石川林太郎という人物だが、この林太郎のほうは645年以降も存命し続けている。
これらは蘇我氏の故郷である越前蘇我国造家に伝承されている話のようです。
さらに、これは私の考えですが、「蝦夷」「入鹿」などという名前は人名としては不適切なものであり、このような卑小な意味を持つ名前や動物の名などを大臣の位にある人物がつけているわけがありません。「蘇我馬子」もそうですが、これらの名前は明らかに日本書紀が蘇我氏のイメージを貶め、悪役としてのイメージを読者に植え付けるために創作した偽名であり、明確な悪意のもとにつけられた名前です。こういう偽名を疑いもせずに教科書に載せたままにしておくことは甚だ不適切と言わざるを得ません。
鎌足の悪行、その(三)は、「古人大兄皇子殺害」です。
乙巳の変が架空の出来事であったとすると、その頃の宮中では何が起きていたのか?と考えたくなりますが、実はこの時、恐ろしいクーデターが進行しておりました。
皇極女帝が軽皇子と謀議して、当時の皇位継承最有力者であった古人大兄皇子を軽皇子に殺害させ、首尾よく事が運んだら、見返りとして軽皇子を即位させ、その後、皇極帝の息子である中大兄皇子を即位させる、という密談が進んでいたのです。
皇極帝にしてみれば、わが子である中大兄に皇位を継がせたいという気持ちは当然あったことでしょう。そこに鎌足はつけ込んだわけです。
鎌足がこのクーデターの首謀者であることは、軽皇子が古人大兄皇子を殺害した後、孝徳大王として王位に就いたとき、内臣という地位を授かっていることでわかります。
内臣とは正式な冠位ではなく、ただの側近という意味ですが、これは文字通り、鎌足が孝徳帝の腹心としての地位を手に入れたことを表しています。
つまり645年に起こったクーデターは、鎌足と中大兄が協力して、古人大兄皇子が謀反を企てたというデマの噂を流させ、吉野宮に隠棲していた古人大兄皇子を誅殺という名目で殺害した、という事件だったのです。蝦夷や入鹿など、どこにもおりません。
鎌足の悪行はまだまだあるのですが、もうこのくらいで十分でしょう。
藤原氏の悪行としてまとめてみますと、鎌足の義父である中臣御食子が石川麻古(蘇我馬子)を謀殺したことに始まり、鎌足の代では山背大兄王と古人大兄王というふたりの大王候補者を殺害し、不比等の代ではなんと、殺害された方の石川氏の大臣たちを蘇我氏三代と偽名で日本書紀に登場させ、自分たちの犯した大罪を、あたかも彼らの行った悪行であるかのように書かせ、隠蔽工作を行ったのでした。
人間というものは権威に弱く、教科書に書かれていることや政府機関が発表する情報などは鵜呑みにしてしまいがちです。そのため、私がこうして何度となく蘇我氏の潔白と藤原氏の悪行を主張しても、なかなか信じてもらえないことも多々あります。
では、斉木説にはどのような論拠があるのか?ということを見て行きましょう。
斉木説は主として出雲王国の宗主家に伝わる伝承から採られたものですが、その内容を裏付ける傍証として、斉木氏はいくつかの例を挙げています。
まず、軽皇子のクーデターですが、彼は孝徳帝として即位した後、都をすぐに難波の子宮という場所に移し、さらにそこから蛙行宮という場所に遷宮しています。このことは暗殺を怖れた行動とも受け取れ、自らが殺人に関与した証拠の一つともとれます。
また、古人大兄皇子の妹であった間人姫は孝徳帝の遷宮に従わず、飛鳥行宮に引っ越します。兄を殺した人物に従わないのは当然の感情です。斉木氏は、その感情を飛鳥移転で示した、と書いています。
さらに、斉木氏が蘇我氏三代(馬子、蝦夷、入鹿)のモデルであると主張する石川麻古、雄正、林太郎の三人の墓は磯長谷の南、平石古墳群に現存しており、通常入鹿の首塚とされている飛鳥寺の五輪塔は他の住職の墓で、蘇我馬子の墓とされている石舞台古墳は用明天皇の古い陵だと書いています。
そして、斉木氏はこのほかにも、尾治大王という幻の天皇がいたことや、聖徳太子の正しい名前は上宮太子であること、石川氏の出自は巨勢氏であり、蘇我氏ではないことなどを書いていますが、それらは「中宮寺曼荼羅」という繍帳に縫い取られた文字に記されているそうです。
まだ、確固たる証拠とまでは行かないかもしれません。しかし、日本書紀に書かれた内容の不自然な部分と斉木氏の主張は常に一致しており、私には斉木説の方がはるかに信ぴょう性が高いと思えます。日本書紀という書物は、後世にこのように真実を見抜く能力を持つ人物が現れて自らの欺瞞を暴いてくれることを期待して書かれたようなところもあるのです。
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