蘇我氏の正体㉑ 藤原鎌足とその一族の実像。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㉑ 藤原鎌足とその一族の実像。

今回からは蘇我氏の仇敵・藤原氏の実像について見て行きます。
藤原氏は我が国の歴史上最大の氏族であり、現代でも宮中の要職はほぼすべて藤原家の支流で占められているほどの名家中の名家ですが、さほど古い家柄ではなく、蘇我氏の時代に突如として出現した家です。

藤原鎌足のもともとの名前は中臣鎌子と言いました。が、この中臣姓もおそらくは生まれついてのものではなく、没落していた名家の名跡を金で買って自分のものにしたものと思われます(落合莞爾氏らの説)。

そして、名前のほうの鎌子というのは、母親が朝鮮半島の生まれの人であったことを示しています。わかりにくいように字を変えてはいますが、鎌子は韓子と同じ意味と考えて良いもので、当時の人々は母親が半島出身者である人をこう言っていました。一種の蔑称と言えます。

その後、「鎌足」と名前を変えますが、この「足(タリ)」というのも古代朝鮮語です。
これは一種の美称とも言えるもので、「鎌足」という言葉からは、半島生まれであることを逆に誇示しているような印象を受けます。
そして、鎌足の母親の出身国がどこだったかというと、これは百済をおいて他には考えられません。鎌足の一生は百済と日本の結びつきを強めるためにあったと言えるほどであり、そのために新羅と密接な関係を持っていた蘇我氏と対立したのでした。
このため、鎌足の正体を「百済王子豊璋」であるとする説もあり、また、「百済の大佐平・智積」であるという説もあります。が、いずれの説にも決め手はありません。

史書には鎌足の出自をいろいろと書き残していますが、ほとんどは虚構であろうと思われます。が、一部には、その出生を「鹿島神宮の宮司家」と書いているものもあります。ちなみに斉木雲州氏著「上宮太子と法隆寺」では、鎌子の父・中臣御食子を「鹿島神宮の元神官・卜部家の分家」であるとしています。

斉木説によれば、中臣鎌足という人物はさほど大きな氏族の出身ではなく、地方役人程度の家柄だったようです。本来ならば王族とは直接話をすることもできないくらいの身分格差がありました。が、鎌足は天賦の才と呼べるほどの世渡りの才能を持った人物でした。

まず、鎌足の義父である中臣御食子から見て行きます。
御食子は地方神官の出身でしたが、中臣の名跡を金で買って名門の出であるように見せかけ、宮中祭祀の役職を手に入れたようです。神武天皇時代からの名家である中臣家ですが、御食子とは血のつながりはありません。

宮中祭祀には皇族たちも、主だった側近たちも皆出席しますので、御食子は自然と有力な豪族たちと話す機会がありました。御食子はこの中でも、当時、立場が微妙だった田村皇子に近づいたのです。田村皇子は有力な皇位継承候補の一人ではありましたが、山背大兄王という絶対的な皇太子がいて、田村皇子の家柄はそれに及びませんでした。田村皇子は当然、自分はどうしたら大王になれるか?ということを日夜考えて悩んでおりました。
そして、そんな田村王子に御食子が囁いた言葉は、驚くべきものでした。
「石川家(蘇我家)の大物を、一人ずつ誅殺して行けば良い」。
(出典:「上宮太子と法隆寺:斉木雲州著、大元出版」)

そして、田村皇子はこの言葉を実践して行くのです。日本書紀にはこの斉木氏の本の内容とは全く違う物語が描かれていることにご注意ください。

さらに御食子は続けます。「まず、宝姫と結婚してください。すると運命が開けてくるでしょう」。

斉木氏の本では、宝姫は名門・息長家の血統とだけ書かれていますが、私の仮説では新羅の名将・金庾信の妹です。金庾信はこれまで見てきた通り、釈迦族の直系の血を引く伽耶国王家の嫡流であり、当時はそのことを日本も新羅も、主だった人たちはすべて知っていたはずです。釈迦族と血縁を結ぶことで、田村皇子を山背大兄王と対抗しうる後継候補に浮上させよう、というのが御食子の描いた作戦でした。

しかし当時、宝姫は蘇我武蔵という人物とすでに結婚して、子供までもうけておりました。蘇我武蔵は蘇我馬子(石川麻古)の孫にあたる人物で、蘇我家中の重要人物です。
当時はその名の通り、関東の武蔵国一帯を治めていたようで、かなりな実力者だったのですが、田村皇子は強引に武蔵と宝姫を離婚させてわがものにします。ここにおいて、藤原氏と蘇我氏(石川氏)の確執の歴史の幕が切って落とされたと言えます。

このとき、時の大王は尾治大王というお方でした。この大王(天皇)の名前は記紀には出てきません。斉木氏の説ですが、この説には「中宮寺曼荼羅の刺繡に記された歴史文」という物的証拠があります。尾治大王は実在した天皇なのですが、記紀は隠蔽しています。
628年、宝姫を得た田村皇子は、病床にあって面会もままならなかった尾治大王に代わって石川雄正(蘇我蝦夷)を呼び、自分が次の大王になる、と宣言します。これも中臣御食子の入れ知恵でしょう。扶桑略記には「蝦夷は田村皇子に反対し兵を挙げた」とあります。

また、境部摩理勢(石川麻古の弟)は、山背大兄王が後継者である、という主張を曲げませんでした。これは当然のことです。山背大兄王こそ尾治大王の嫡男だったのですから。
このとき、中臣御食子は「それは大王の決定に背くことになる」と咎めました。
が、このときの尾治大王は重病で、もはや口を開くことすらできない状態でした。これを良いことに田村皇子は「自分が王位継承者に指名された」というウソを吹聴したのでした。

そして、軍勢を指し向け、境部摩理勢を誅殺してしまいます。これが藤原氏による蘇我氏一族連続殺人の最初の大事件でした。
その後すぐ、尾治大王は没し、田村皇子は首尾よく即位します。これが舒明天皇です。

そして641年、御食子の養子となっていた中臣鎌子(鎌足)が葛城皇子とともに石川雄正(蘇我蝦夷)の豊浦の邸宅を襲い、誅殺します。
そのやり方は御食子そっくりで、石川雄正には何の落ち度もなく、鎌子には雄正を成敗する正当な理由は全く存在しません。蘇我氏ではなく、藤原氏こそ血も涙もない悪魔のような人間たちだったのです。

しかし、当時はすでに舒明天皇の治世であり、石川臣は反主流派の立場に置かれていました。この暗殺を指揮したのは舒明天皇であり、その参謀として策を授けたのは鎌子に相違ありません。鎌子は義父・御食子から「弱小氏族がのし上がるための非道の道」を徹底的に伝授されていたのでした。

鎌子の子である藤原不比等は、これらの史実を隠すため、古事記完成後にわざわざ日本書紀という別な史書を作り直し、この時代の記述に大規模な加筆を施し、ウソで固められた歴史書を残しました。その記述は今でも日本史の教科書に丸写しされて使われています。

(図はこの頃の王室系統ですが、事実とはかなりかけ離れています。この図にはない尾治大王は推古帝の息子と思われ、山背大兄王の父になります。)

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