蘇我氏の正体⑳ 蘇我武蔵とはどういう人物であったのか?(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑳ 蘇我武蔵とはどういう人物であったのか?

蘇我武蔵。のちに蘇我日向という名前で大宰府の帥となる人物で、蘇我氏の時代の掉尾を飾る人物でもあります。この人物以降、蘇我氏は歴史の表舞台からその名を消すことになるのですが、この「最後の蘇我氏」がなんとも謎に満ちた、不思議な人物なのです。

この人物について、まず、何よりも先に覚えておかないといけないのは、この人の最初の妻となった女性があの宝姫(皇極・斉明天皇)だったということです。武蔵はこの女性と結婚して一人の男児までもうけていました。そしてその男児というのが超重要人物なのです。

が、その後、藤原鎌足の謀略により宝姫は田村皇子に奪われてしまいます。田村皇子は宝姫の出身である息長家の権勢を得て、舒明天皇として大王の位に昇りつめます。
そして、その後の蘇我武蔵の行動が実に謎めいているのです。

まず、「皇極記」によりますと、武蔵の異母兄であった石川倉山田麻呂の娘と中大兄皇子が婚約した夜、こともあろうにその娘と密通した、という記載があります。が、これによって武蔵が処罰されたという記載はなく、これはなにかの暗号なのかもしれません。
その後、武蔵は「石川麻呂が中大兄を殺害しようとしている」と讒言し、石川麻呂を自害に追い込んでいます。これも不可解です。同族を謀殺する理由が武蔵にはありません。

武蔵はさらにその後、孝徳天皇の息子であった有馬皇子に近づき、斉明帝や中大兄の失政を批判し、「自分は有馬皇子の味方である」と言って謀反をそそのかします。
そうやって有馬皇子に謀反の決心を固めさせたうえで、武蔵は何と、この謀反計画を中大兄に密告、有馬皇子は捕らえられ、処刑されます。

・・・こうして見てくると、蘇我武蔵という人物はじつに嫌な男で、中大兄の忠実な飼い犬のような人物に見えてきます。しかし、これは例によって、日本書紀独特の情報隠蔽である可能性が高いと思われます。書紀は蘇我馬子や蝦夷に対して行ったことと同じやり方で武蔵にいろいろと無実の罪をなすりつけ、藤原氏の悪行を隠そうとしていると考えられるのです。
なにより、蘇我武蔵にこのような悪行を働く理由と必然性がまったくありません。

中大兄は藤原鎌足と組んで蘇我氏(石川氏)を滅ぼした人物です。そんな人物に蘇我氏の一員である蘇我武蔵が味方すること自体、考えられないことなのです。

そもそも、自分の妻であった宝姫を田村皇子に略奪された蘇我武蔵が、その田村皇子の息子である中大兄と仲良くするはずもありません。この略奪劇はすべて、藤原鎌足と中大兄の謀議で行われたことに違いなく、被害者である武蔵は、日本書紀によって、その事実をなんとか正当化するために、悪役としての狂言回しの役割で物語に使われたに過ぎない、と私は判断します。

しかしながら蘇我武蔵は、なぜか石川麻呂誅殺事件の後、名前も蘇我日向と改め、筑紫国大宰府の帥(そち)として出向します。
時に650年頃のことで、13年後の663年には白村江の戦いが起こっておりますので、この時期の大宰府の帥(軍事長官)という職務には極めて重要な意味がありました。これは日本という国の盛衰を左右するほどに重い職務であったはずなのです。

このような重要な職位に、讒言で人をたぶらかして謀殺するような狡猾な人物が選ばれるものでしょうか?・・・日本書紀という書物にはこういう、細部の状況がかみ合わないようなストーリー展開が非常に多く、そうした部分にはかならず秘密が隠されていると言って良いのです。言わば、作者が意図的に改ざんをほのめかしている部分があるのです。
では、蘇我武蔵(日向)とは、実際にはどんな人物だったのでしょうか?

ここで私たちが思い出さないといけないのは、蘇我武蔵と宝姫(のちの皇極・斉明天皇)とはかつて結婚しており、男児までもうけていたということです。そして、その男児の名前は「大海人皇子」でした。・・・そう、言わずと知れた、のちの天武天皇です。
蘇我武蔵はこの大海人皇子の父親であったがゆえに、さらに、斉明帝の前夫であったがゆえに、たとえどんなに狡猾非道な中大兄・鎌足コンビであっても武蔵にだけは手をつけられなかった、というのが真相ではないかと思われます。

妻を奪われ、一族の祖父や兄弟をことごとく殺された蘇我武蔵が、どのような心境で大宰府に赴任するまで生きながらえていたのか、その心中は推し量るに余りあります。

彼はおそらく、息子である大海人皇子にすべてを託し、皇子の成人を待って、再び蘇我氏政権を復活させるべく、時期をうかがっていたのでしょう。大宰府の帥という職掌だけは武蔵が所望したものと見て良く、それは来るべくして起こる戦争の準備をして、日本という国を守りながら自分の兵力も涵養する、という目的があったはずで、この周到な準備がのちの壬申の乱による大海人皇子の勝利を導くことになるのです。蘇我武蔵もまた、決して凡庸な人物ではなかったのです。・・・むしろ、藤原氏から蘇我氏政権を取り戻した、たいへんな力量を備えた人物であった可能性が高いと思われます。

実際、その後の歴史は天智天皇となった中大兄皇子と大海人皇子の確執の歴史となって行きます。そして、最終的に大海人皇子が勝利して天武天皇となり、唐に向かって高らかに日本の独立を宣言したとき、釈迦族・蘇我氏(正確には石川氏)の政権も復活したのでした。

こう考えてくると、日本書紀が天武天皇の生前には完成せず(686年崩御)、死後34年も経った720年に成立したということの意味も見えてきます。
天武帝の生存時にはやれなかった歴史の大改竄事業を、藤原不比等は何年もかけて念入りに行ったわけです。それは藤原氏がやってきた大悪事をことごとく蘇我氏になすりつけ、蘇我氏の所業として書き残すということでした。

一度は古事記という歴史書が完成しながら、それに満足せず、日本書紀では藤原氏の悪行を徹底的に隠蔽し、彼らの行った悪行はすべて蘇我氏の行ったこととして、無実である彼らを大悪人のように書き替え、後世に残しました。
鎌足・中大兄のコンビは政敵を罠にかけ、だまして孤立させてから刺客を送って暗殺する、というやりかたを繰り返して政権を手に入れました。すべてはこの二人が考え、この二人が実行したことです。その思考と行動には正義のカケラもなく、ただただ自分たちの出世欲と支配欲があるだけです。

人間の行動には「パターン化」という傾向が見られ、一生のうち、何度も同じパターンの行動を繰り返す、という癖があります。鎌足・中大兄の暗殺パターンもこれに該当しますが、冒頭に書きました、武蔵が石川麻呂の娘に手を出す、という記述は、田村皇子が武蔵の妻・宝姫に手を出した史実を、加害者と被害者を入れ替えて記述しているもの、と思われます。
日本書紀にも、ウソを書くときに一定のパターンがあり、このパターンを知ると、どの部分が改ざんされているのかということが見えてくることがあるのです。

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