蘇我氏の正体⑯ 斉明帝は金庾信の妹・宝姫である。
蘇我氏の時代の重要人物・斉明天皇。重祚した天皇としても有名で、最初の即位時には「皇極天皇」の諡号が贈られています。
このお方は珍しいことに、天皇としての諡号だけでなく、陵墓も二つあります。九州と畿内にひとつずつ。どちらも天皇陵としての風格を備えた立派な陵墓です。
日本書紀によりますと、斉明帝は現在の福岡県の朝倉の地で崩御し、一度その地に葬られた後、飛鳥へと遺骸が運ばれ、改葬されたようです。
私はかつて、朝倉の斉明天皇陵・恵蘇八幡宮1・2号墳を訪れ、そこにあった漏刻(ろうこく)と呼ばれる古代の水時計を見て、非常に驚いたことがあります。それは、私が以前韓国を旅したとき、旧新羅地域の仏国寺というところにあったものと瓜二つだったからです。
この時から私は「斉明帝はもしかしたら朝鮮半島の出自だったのではないか?」と考えるようになりました。
天皇を含む日本の有力者が半島から妻女を迎える、という風習は古代からあり、第50代の桓武天皇の頃まで続いておりました。しかし、記紀においてはそのことが隠蔽されていることが多く、記紀に記された歴代天皇の親子関係はあまりあてになりません。
もともと記紀が編纂された理由というのは、白村江の戦いの後に唐の監視下に置かれた日本で、天武天皇が日本の独立を目指し、唐の支配から抜け出そうと試みた一連の政策の中で行われたことですので、その歴史物語からは日本と中国のつながりを示す事項、たとえば日本以外の国から来た人のことや、中国に朝貢した事実などはすべて隠蔽されました。記紀の記述に徐福や卑弥呼等の超重要人物が出てこないのはそういう理由によるためです。
天孫降臨神話や萬世一系の神話が語られていることも同様に、日本という国の独立性と歴史の固有性・尊厳性を主張するためのものであり、必ずしも真実とは言えません。
そのうえ、蘇我氏の時代の記述に関してはどうやら徹底した「蘇我氏の本性隠し」も行われているようなところも見受けられます。
たとえば、継体天皇は記紀では「応神天皇の五世孫」としてありますが、この記述は以前から疑問視する声が多く、出雲伝承では継体天皇を「蘇我氏の一族」と明言しています。
もしも、出雲伝承の通り、継体帝が蘇我氏であったのならば、その時点でヤマト王権は蘇我氏王権となっており、日本に蘇我氏王国が誕生していたことになります。通常は蘇我馬子の時代を頂点とする蘇我氏専制時代はずっと以前から始まっていた、ということになるのです。
さて、そんな時代に生まれた斉明帝ですが、私がどうしてこのお方を新羅の将軍・金庾信の妹であると主張するのかと言いますと、金庾信の妹の名前は「宝姫」といい、斉明帝の幼名と同じ名前である、というのが一つの理由です。
そしてこの宝姫という存在が極めて複雑な生い立ちを辿っており、この時期の日本の歴史に大きな影を落としているのです。
まず、斉木雲州著「上宮太子と法隆寺」より、宝姫に関する記述を見て行きましょう。
斉木氏によりますと、藤原鎌足の義父である中臣御食子と田村皇子(のちの舒明天皇)が共謀して、すでに石川武蔵(蘇我武蔵)という人物に嫁いでいた宝姫を強奪して奪うところから事件が始まります。
この事件を発端として、蘇我氏の王国であった日本は徐々に藤原氏の天下へと変容して行くわけですが、藤原氏のやり方というのはその最初の最初から、かくもひどいものでした。
宝姫は息長家という名家の血筋を引いていたようです。息長家は新羅にルーツがあり、一族からあの神功皇后が輩出したことから、以降のヤマト王権の中でもずっと隠然たる勢力を維持していました。中臣御食子は蘇我氏政権を打倒すためには、まずこの息長家を味方に取り込む必要があると考えたようです。
この強奪事件が原因となって、石川雄正(記紀名:蘇我蝦夷。蘇我武蔵の伯父)が田村皇子に対して兵を挙げた、という記述が「扶桑略記」にあるようです。
日本書紀では宝姫の父親は茅渟王という人物にされていますが、この人物は田村皇子の兄にあたります。田村皇子は自分の兄の娘と結婚したことになりますが、この日本書紀の設定には少し無理があるのではないでしょうか?
斉木氏によりますと、この宝姫強奪事件以降、藤原氏と蘇我氏の対立が表面化し、641年には中臣鎌子と葛城皇子の率いる軍勢が石川雄正(蘇我蝦夷)の邸宅を襲い、殺してしまうという事件が起こります。これは日本書紀に書かれている記述とは真逆と言って良い出来事で、斉木氏の説くところが正しかったとすると、藤原氏は自らの悪行を隠すため、無実の蘇我蝦夷を謀殺したことになり、しかもその無実の蝦夷を徹底的に悪人として日本書紀に描いている、ということになります。・・・そう、真の大悪人は藤原氏なのです。
・・・ともあれ、ここまでのことで、斉明帝=宝姫が朝鮮半島にルーツを持つ人物だということがかなり鮮明になってきました。では、なぜ宝姫が金庾信の妹であるのか?ということを追って行きましょう。
金庾信は新羅という国の歴史上最強の将軍です。勇猛さと知略を合わせ待った将軍であり、そのうえリーダーシップと政治力にも秀でており、生涯の中で戦って敗れたことはほぼ一度もなく、蘇我氏の時代の新羅が弱小国家ながらなんとか持ちこたえていたのは、ひとえにこの将軍の力に負うところが大きかったと言えます。
この頃の新羅は百済と戦争を繰り返しており、百済がさかんに新羅の領地に攻め込み、金庾信のいないところでは百済が勝利を収めるものの、その後、金庾信が戻ってくると新羅に領地を奪い返される、ということが続いておりました。金庾信は体を張って戦いながら、新羅の善徳女王、武烈王、真徳女王らに仕え、その武勇で政権を支え続けました。
ところで、新羅初の女帝誕生という事件は「女帝では天下は治まらない」とした臣下の者たちの反乱を招きました。金庾信はこうした反乱をことごとく平定し、善徳女王・真徳女王という二人の女帝の擁立に深く関わっています。この二人の女帝が誕生したのは金庾信の力によるものと言って良く、そして、それを働きかけたのはほかならぬ蘇我氏だったのです。
前回の稿で、蘇我氏が釈迦族の末裔であり、女系相続の家柄であった釈迦族の王朝を復活させようとしたことをご説明いたしましたが、実は、金庾信にも釈迦族の血が流れています。
金庾信は金官伽耶国初代から数えて十二世孫にあたる国王家直系の嫡男で、初代首露王の王妃・許黄玉は釈迦族の女性でした。ですので、金庾信は釈迦族の直系の子孫なのです。
同じ釈迦族である金庾信の妹・宝姫を、蘇我氏が日本に招聘し、釈迦族の王国を日本に復活させようとしたと考えれば、すべての事件は符合してくるのです。
蘇我氏の大野望。それは、新羅と日本にまたがる大仏教王国の樹立でした。その夢はまた、釈迦国復活の夢でもあり、この時期の日本と新羅の両国に女帝が即位することにより、その夢はほぼ、成し遂げられていたのです(続く)。
コメント