真説仏教伝来⑯ 巴型銅器の謎。
写真は大分市の雄城台遺跡から出土した巴型銅器。卍型銅器とも呼ばれます。
なんにために作られ、何に使われたのかわからず、謎の銅器とされています。
武器や刃物のように、なにかの道具として使われたようには思われず、祭祀具ではなかったかという説が主流のようですが、私は、実はこの銅器こそ、「仏教信者であることを示す紋章」だったのではないかと考えています。
理由は、ずばり、この卍文様が現在でも寺、つまり仏教施設を意味するマークとして使われているからです。
その起源を調べるとお釈迦様の時代までさかのぼるようで、お釈迦様の胸、手足、頭髪にこの文様が現れたことから、インドでは吉祥がある人物の象徴、めでたい趣意を表すものとされ、寺院の記号にもなったようです。
この銅器は九州で多く出土し、特に糸島のある福岡県で出土例が多く、対馬や韓国の金海市にある大成洞古墳(金官伽耶国のあった場所)でも発見されていますので、金官伽耶国から九州に広まったとも考えられ、「仏教徒であるしるし」として高僧が弟子に得度の際に渡す身分証明書のようなものではなかったか、と私は考えます。
私は、お釈迦様の子孫が古代、韓国の高霊市にたどり着き、伽耶山の麓を住処とした、と考えます。伽耶山という名前は「ブッダガヤ(インドにある聖地で、お釈迦様が悟りを開いたとされる場所)」を意味するという説があり、ここに住み着いた釈迦族が一族の証としてこの巴型銅器を制作し、各家庭の門などに貼り、祈りを行ったのではないかと考えます。
この山の神である「正見母主」が仏教由来の名前であることは先に触れました。
その正見母主と結婚した異民族のイビカもまた仏教徒であった可能性が高く、仏教徒同士が結託して、当時強力だった前漢に対抗しようとしたのではないか、と考えています。
そう考えると、金首露王の子供たちや長遊禅師たちが日本にやってきた理由も合点が行きます。彼らは前漢と対立する勢力だったので、中国方面に進むことはできず、反対側に開拓地を求めるしかなかったのでした。
この巴型銅器は特に糸島付近で多く発見されており、私の「仏教糸島伝来説」を裏付ける傍証になるかもしれません・・・。
この巴型銅器、時代が下がると一種のお守りのように扱われ、剣や盾の一部に取り付けられ、戦いの際に仏陀の守りを得られるよう、願いが込められたもののようです。
これが九州で発掘されたということは、古代に九州の地まで仏教が伝播していたことを示すものでもありましょう。
写真の説明はありません。
いいね!
コメントする
シェア
コメント