真説仏教伝来⑧ 長遊禅師の意外なる正体。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

真説仏教伝来⑧ 長遊禅師の意外なる正体。

 前回まで、日本に初めて仏教をもたらしたのは長遊禅師であるという話をしました。
今回はこの長遊禅師の人物像を探って行きます。・・・と言いますのもこのお方は単なる仏教の伝道師というだけでなく、知られざる様々な側面を持っているようなのです。

 長遊禅師がお釈迦様の教えを広めた高僧であることは疑いなく、しかも、許黄玉やこのお方は釈迦族の血を引いていた可能性もある、という話を前回いたしました。

 彼らはインド、サータバーファナ王国の王族でした。サータバーファナ王国はバラモン教を国教とし、厳格なカースト制のもとに国家を運営しておりましたので、彼らはバラモン教徒であったと言えます。

 しかし、一方でこの一族は仏教を手厚く保護しています。当時のサータバーファナ王国には、滅ぼされた釈迦国、コーサラ国の末裔たちがたくさん住んでおりました。
 通常ならこのような異教徒、異国民は殺されるか、奴隷として扱われるのが普通ですが、サータバーファナ王室の人々は仏教の価値を認め、国体としてはバラモン教支配を維持しながらも、個人的には仏教に帰依している王族も多くいたようです。
 このあたりにも、釈迦族の血脈がサータバーファナ王家に入っていた可能性を感じるのです。

 そして、許黄玉と長遊禅師の両親はサータバーファナ王国が全盛の時代に王宮から離れ、現在の中国・四川省に移住しています。
 この移住の理由のひとつは、王室の血脈を分散させ、戦争に負けたときに一族が全滅することを避けるためだったでしょう。
 しかし、私にはもうひとつの理由が考えられます。それは、貿易立国であったサータバーファナ王国の事業の拡大です。

 前にも書きましたがサータバーファナ王国は西ローマ帝国との季節風貿易で財を成し、インド最大の強国に成り上がった国です。この国が貿易物産として最も重要視していたのが鉱物資源で、鉄鉱石の需要が非常に高かったことをはじめ、金や銀などがすでに欧州では通貨として使われ、その他、水銀、鉛、錫などが珍重されていたのですが、極東の朝鮮半島や日本列島ではまだその価値があまり知られておらず、未開拓の鉱山が山ほど残っていたのです。

 長遊禅師と許黄玉の一族はこの鉱物資源を求めて金官伽耶国までやってきて、金首露王と縁組したのではないか?・・・なぜなら伽耶地方は鉄鉱石の大産地であり、非常に多くの鉱山跡や鉄の加工場跡が現在も残っているからです。

 つまり、長遊禅師が金官伽耶国に渡来した目的は、仏教の布教と同時に、西方に高価で売れる鉄の確保にあったとも思えるのです。
 
大伽耶国のあった伽耶山から金官伽耶国を通る洛東江という川の河岸地帯に鉄鉱石の産地が点在しており、この川の河口付近に王城が建てられたことは、この国が鉄の貿易で繁栄することを目的として作られた国であることを物語っています。

 伽耶国に鉄の採掘技術や加工技術をもたらしたのも長遊禅師の一行でしょう。金官伽耶国建国からまもなく、半島と日本は鉄器の時代を迎え、青銅器の時代が終わります。このような時代をもたらした長遊禅師は、敬虔な宗教指導者としての表の顔と、したたかな商人としての裏の顔を、両方持っていたことになります。
 このことはまた、長遊禅師の後裔と思われる天孫ニニギの降臨後の行動からもうかがい知れます。

 以前、ニニギが渡来した目的は熊襲国との縁組を行って居住権を得るためと書きましたが、もう少し詳しく申しますと、彼の目的は「熊襲国の居住権を得て、九州を自由に探索できる身分になり、九州の地下資源をくまなく探し回り、鉱脈を見つけて価値ある鉱石を採掘し、一族の故郷サータバーファナ王国を経由して西域に販売するためのルートを確立すること」にあったのです。

 ニニギは最初、福岡県の糸島に上陸しますが、そこから鹿児島県野間岬にあった熊襲王の本拠地に行き、そこで熊襲族のコノハナノサクヤヒメと結婚、しかしそこには留まらず、鹿児島、宮崎県あたりをくまなく歩き回り、ときには北陸方面まで遠征したのち、最終的には宮崎県高千穂町に王城を構え、そこに落ち着いています。

 上記のニニギの移動ルートについてはいくつかの説がありますが、鹿児島・宮崎の両県にニニギを祀る神社が非常に多いことから、この神社の分布自体がニニギの活動ルートを示しているのではないかと私は考えています。

 さすがに長遊禅師の末裔、ニニギは行く先々で人々から大歓迎を受け、心から民衆に信奉されていたようです。ニニギを祀る神社の多さからもそのことは伺い知れますし、記紀におけるニニギという人物の格段の持ち上げぶり(なにせ「天孫降臨」)は、記紀が書かれた時代でも日本古代史上最高の名君としてニニギの名前が轟いており、皇室の祖先とするに彼しかいない、という価値観が存在していたことを思わせます。ニニギは実際には皇室の祖先ではないかもしれず、記紀の皇室系譜は作り物かもしれないのですが、そんなことをしてでもニニギが祖先神であってほしい、という願望が記紀編纂の時の為政者の心の中にあったと思われるのです。

 ニニギの跡、記紀の系図ではホホデミ、ウガヤフキアエズ、神武天皇と続いてゆくのですが、興味深いことにここでも地下資源と天孫族の関係が浮き彫りになって行きます。

 まず、ニニギが王城を作った宮崎県高千穂の隣に五ヶ瀬町という町がありますが、ここにある祇園山という山は5億年前の地層でできており、地下資源の宝庫です。

 その高千穂、五ヶ瀬町と、大分にあったウガヤフキアエズ王朝を結ぶ直線上に尾平鉱山があります。この鉱山からはヒヒイロカネという、ダイヤよりも貴重価値が高いとされる鉱物をはじめ、金銀、水晶など様々な鉱物が採掘でき、天孫族にとっては文字通り「宝の山」でした。ニニギが高千穂に王城を構えたのはこの尾平鉱山と祇園山を手中にし、守り続けるためと考えられ、ニニギの孫にウガヤフキアエズがいるということは、その頃天孫族とウガヤ王朝の間で政略結婚が行われ、ふたつの王朝が融合したことを示していると私は考えます。

 また、そのウガヤフキアエズの陵墓と否定される吾平陵は熊本県菊池郡にあり、日田の鯛生金山から山道を通って人里に出てきた場所にあります。ウガヤフキアエズは鯛生金山を守るため、死後も金山を監視できる場所に自らの御陵を作らせたのかもしれません。

 さらに、その子供の五瀬命はウガヤ国・大分県から福岡県にかけて山道を調べ歩き、その周辺の多くの神社で祀られています。五瀬命は鉱物資源を求めて旅する途上で現地の海人族と知り合い、海上輸送の相談をするうちに東征を持ちかけられ、神武東征へと発展したのではないかと私は考えています。

 蛇足ながら、よく似た事例が後年、弘法大師時代に出現しています。大師の開山した高野山は水銀鉱脈の上に立地しており、地元の山師たちの依頼と支援を受けて遣唐使となった空海が、昔の恩義に報いるために支配権を手に入れたのが高野山という場所だったという説があるのです。

 長遊禅師といい、空海といい、説法だけでは人は動かせない、という一面があったのかもしれません・。

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