モモソヒメ・スキャンダル考察(上野俊一 稿)

上野俊一稿

モモソヒメ・スキャンダル考察

■「事実か否か」より「なぜ書いたか」
記紀は勝者が自己に都合良く伝説を繋ぎまとめた物であり歴史書としては信頼性に乏しい、という見方は間違いでは無いが、奥行きに欠ける。
実際、日本書紀には残虐非道な天皇や猟奇的処刑を好む天皇も登場するし、皇統の正統性や神聖性を謳うには不都合と思われる記事も少なくないのだ。

記事が事実か脚色か争っても実りは少ない。むしろなぜそのエピソードを載せたのかを考えることに意義がある。それによって記紀が編纂された時の政権(天武・持統)の考え方、歴史観を推し量ることができるからである。

■モモソヒメ記事の「なぜ」
例えば、日本書紀の崇神紀にヤマトトトヒモモソヒメのスキャンダラスな死の記事をなぜ載せたのかを考えてみよう。
記事内容は以下の通り──現代語訳日本書紀(福永武彦)より

 天皇の大叔母である倭迹迹日百襲姫命 (ヤマトトドヒモモソヒメノミコト)は、オホモノヌシノ神の妻となった。ところがこの神は、いつも昼はその姿が見えず、夜ばかり通って来た。ヤマトトド姫はそこで夫に語って、「あなたは、昼はお見えになりませんので、まだ私は、あなたのお顔を眺めたことがございません。どうかもう少しゆっくりして下さいまし。朝になって、あなたの美しいお姿を拝見いたしとうございます」こう頼んだ。大神は、「それはしごくもっともだ。明日、私はお前の櫛箱の中にはいっていよう。ただ、私の形に驚いてはいけないよ」こう答えた。そこでヤマトトド姫は、内心ひそかに不思議に思い、夜の明けるのを待って櫛箱を開いてみると、中に美しい小蛇がいた。その長さといい太さといい、下衣の紐のようだったので、びっくりして声をあげて泣いた。すると大神は恥じ入って、たちまち人の姿に戻り、その妻に語って言うには、 「お前はこれしきのことに我慢ができなくて、私に恥を見せた。私が帰ってしまえば、お前も恥を見るだろう」こう言って、大空を踏んで、三輪山に登って行ってしまった。ヤマトトド姫は、天を仰ぎ見て大いに後悔し、急にしゃがみ込んだ。そのはずみに、箸で陰処を突いて命が絶えた。その亡骸は大市に葬った。そこで世の人が、その墓を名づけて箸の墓と言った。この墓は、昼は人がつくり、夜は神がつくった。その墓づくりのために、大坂の山の石を運んだが、山から墓に至る間を、人民が次から次へと、手渡しにして石を運んだ。世の人が歌をうたって言うには、
 大坂に、継ぎ登れる石群を
 手越しに越さば越しかてむかも
(大坂山の麓から頂きにかけて、石また石がぎっしりと、しかし手渡しで運んだなら、いつかはすっかり運べるだろうよ。)

■単なる与太話ではあり得ない
彼女の死の経緯は無論神話的フィクションである。ここで「箸」が日本に入ってきたのは遣隋使以降であるから、このフィクション自体も7世紀以降の創作ではないか、という見方がある。また食事用の箸が寝所にあり、それがホトに刺さるという設定自体が不自然でそもそもが与太話だ、と一笑に付すこともできる。私も以前はそう考えていた。しかし、神前に御饌を供えるためのトング型の竹折箸は、それより古くからあったともいわれ、であれば、踏み方の加減で刺さるような事故が起きないとも限らない。しかもモモソヒメは巫女であり、傍らに竹折箸を置いていても不自然では無い。ストーリーとして矛盾は無い。

そもそも彼女の死が事件で無ければ、このような伝説は生まれないだろう。猟奇的な変死体で発見されたのはおそらく事実であり、それが噂として広がり、そこから生まれた伝説と見る。

■この記事が意味するものは?
「お前はこれしきのことに我慢ができなくて、私に恥を見せた。私が帰ってしまえば、お前も恥を見るだろう」という大物主の意趣返しの言葉。その言葉通りにホト(女陰)に箸が刺さって死ぬという無残で屈辱的な死。それは何を意味するのか? また、この記事の意図は何か?

現代の警察なら「他殺。しかも強い怨恨を持つ者の犯行」と目星をつけるだろう。被疑者リストを覗くと、彼女の示唆によって謀反の疑いをかけられ滅ぼされたタケハニヤスヒコ夫妻の関係者の名、都の建設に協力したにも拘わらず、彼女の弟のイサセリヒコらに鉄の権益もろとも国を奪われた吉備の温羅の残党の名、同じくイサセリヒコに滅ぼされた出雲振根ら出雲王国関係者の名があったりするかも知れない。

■浮かんでくるモモソ・崇神批判
モモソヒメの記事は古事記にはなく、日本書紀のみに載るが、そこから私が読み取るのは、編纂サイドのモモソヒメに対する強い嫌悪感情である。それはおそらく持統帝の意を受けたものだろう。持統帝は天照大神に心酔し、天照大神を皇祖神と再確認し、伊勢神宮の経済基盤を強化し、律令で祭祀を制度化した人である。それ以前の政権が祀った皇祖神は実は高御産巣日神であったとも言われるが、持統帝は、崇神紀に疫病対策と称して行われた宮中からの天照大神を含む諸神の祭祀勢力の排除が、重大な背任行為と考えていたのではないか。

崇神帝の祭祀改革「神人分離」は神権政治から人知政治への転換と評されるが、疫病封じを口実に、宮中から祭祀勢力・抵抗勢力を一掃して権力の集中化を謀ったと見えなくも無い。おそらく持統帝はそう判断した。そこで崇神のブレーンであったモモソヒメをその元凶と見做し、その死に様を無様な神罰として特記し、さらに石運びに駆り出された民の愚痴のような歌まで載せ、意趣返しをしたと想像する。あるいは、モモソヒメが恨まれ殺されるような人物であったことを印象づける狙いもあったのかも知れない。

批判は崇神帝にも向けられている。例えば「ミマキイリビコはや おのが命を殺せんと ぬすまく知らぬに 姫遊びすも」と歌う不思議な少女の話を載せ、自分の危機も知らず女遊びにうつつを抜かす人格として描いた。また垂仁紀の記事では倭大国魂神に崇神の祭祀の過ち、諸神の役割への理解不足を語らせている。
これらは持統帝の意向を受けて、仏教支持勢力を牽制し、古来の神道を復活させることを責務と考えた藤原不比等の編纂方針でもあろう。

■余談
話はそれるが、崇神帝の「神人分離」は、それまでの政権が各種祭祀勢力に担がれる不安定な状態にあったことを窺わせる。祭政が不可分な時代であれば、この状態が長続きするはずが無い。察するにこの政権の歴史は浅い。立ち上がったばかりで初期異常の出やすい状況であったと想像されるのだ。
私は、崇神帝は神武帝、同一人物の別の側面という印象を持っている。「光」に対する「影」、「聖」に対する「俗」、日本書紀ではそんな役割を与えられたのではないか、と考えたりする。

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