スサノオの足跡㉜ 天孫ニニギとは徐福のことか?
始皇帝の命で不老不死の仙薬を探すため日本に向かったとされている徐福ですが、その足跡は日本のみならず、朝鮮半島や台湾にまで及び、各地に伝説が残されています。
たとえば、現在の韓国の済州島にある西帰浦という市には、かつてその町に徐福が来航し、島にある漢孥山を蓬莱山と見立てて仙薬を探したが、見みつからかったので西の方角に帰って行ったという伝説が残されているようで、市の名前もその伝説に由来するようです。
この西帰浦市は済州島の南に位置しており、その港からはすぐに日本に向けて出航できる地勢を持っています。
また、朝鮮半島の本土にも、蓬莱山、瀛洲山などという名前の山があり、やはり徐福の渡来伝説が残されているようです。
徐福渡来の伝説は日本列島にも数十か所にわたって残されていますが、それだけにとどまらず、彼が驚異的なほどに広い地域を探検して歩いていることがわかります。
こうしてみてみると、徐福が始皇帝を騙して莫大な出費をさせ、日本に逃亡したという説は誤りであり、徐福が比類なき忠臣であり、自分の職務に忠実に、全力で不老不死の仙薬を探していたことがわかります。
・・・その一方で、徐福とスサノオとの関連を考えるとき、どうしても理解できない不思議な事象があります。それは、出雲王家口伝の系図の中に、徐福の父を徐猛、徐福の母を栲幡千千姫とする記述があることです(富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」大元出版 他)。
徐猛という名前は中国人の名前として問題なしとして、問題は栲幡千千姫のほうです。
この姫様は古事記や日本書紀に高皇産霊神(高木神)の娘として記述されているお方で、この姫様が天照大神の息子の天忍穂耳命と結婚して生まれたのが、あの天孫ニニギです。
記紀においては天照大神を皇室の祖として記述していますので、記紀の系図と合わせますと、徐福はニニギその人、あるいはニニギの兄弟、ということになるのです。
そして、出雲伝承による系図では、徐福の子が五十猛命、その子が天村雲命となっており、この天村雲命こそ、後に神武天皇と呼ばれた人物であろうと推測されています。
これに対し記紀の系図では、ニニギの子がホホデミ、その子がウガヤフキアエズ、孫が神武天皇という順番になっており、出雲系図とはかなり異なっています。
では、どちらの系図が正しいのか? このことを検証して行きましょう。
記紀の系図から見て行きますと、ホホデミは火火出見と書き、これは火を信仰した民族である熊襲族の族長を意味しています。実際に記紀では天孫ニニギが大山祇神の娘・コノハナノサクヤヒメと結婚して高千穂に住んだと書かれており、大山祇を熊襲王と考えれば筋が通ります。
また、ウガヤフキアエズは今の大分県あたりにあったウガヤフキアエズ王朝という伝説の王朝の王であり、この王朝についてはウエツフミ等に詳しい記述がありますので、ニニギが鹿児島⇒宮崎⇒大分と移動して子孫を残して行ったと考えれば、やはり無理なく理解できます。
一方、出雲口伝のほうの記述は、徐福から五十猛命、天村雲命と続くもので、富士林氏の著書にはこの系図に関する具体的な説明や地名の表示があり、多くの状況証拠も提示されていますので、こちらの系図こそ間違いのないものだと思われます。
・・・すると、記紀のほうが系図を間違えている、あるいは書き換えているということになるのですが、これはいかなる理由でそうなったものなのでしょうか?
確実に言えるのは、記紀という書物は日本という国が独立国であることを当時の中国の王朝に対して宣言するために書かれたものであり、中国とは別の、由緒ある歴史を有する国であることを主張しなければならない状況下で書かれた書物である、ということです。
記紀の編纂を命じた天武天皇は当時、白村江の敗戦から間もなく、なかば中国の占領状態に置かれていた日本という国の独立を勝ち取るため、中国に負けないほどの美しい歴史物語を作成する必要がありました。そのためには徐福という中国人が日本の王室の始祖であることは許されず、徐福の名をニニギと変え、その出身地も中国ではなく高天原という、あたかも日本列島の真上にあったかのようなおぼろげな場所として設定したのでしょう。
なお、南九州にあった熊襲国の遺跡からは、なんと六千年も前の土器が発掘されており、その後も五千年前、四千年前と各年代ごとの土器も出土していますので、熊襲国は世界でも最古級の王国です。記紀の作者はこうしたことも考慮してニニギと熊襲国の縁組を演出したのかもしれません。
一方、出雲伝承の系図によりますと、徐福の孫である天村雲命は出雲から大和に入り、王権を確立したとされています。これがヤマト王権の発端であるとしたら、天村雲命こそは神武天皇のモデルであろうと思われるのですが、記紀の系図とは合致しません。
実際には、天村雲命が創始した王朝は磯城王朝であり、厳密にいうとヤマト王権そのものの母体ではないようです。この時代のヤマト地方には磯城王朝の他にも複数の都市国家が存在した可能性が高く、ひとつのまとまった勢力は存在しなかったと思われます。つまり、天村雲命が神武天皇のモデルであったとしても、神武天皇がヤマト全体を平定したわけではないのです。
さらに難しいことに、ヤマトのさまざまな都市国家の中でも磯城王朝や三輪王朝は出雲系の民族により樹立された王朝でありますが、葛城王朝はどうやら熊襲人の血脈が入ってきているようなのです。神武天皇から時代はかなり下がりますが、この地に葛城襲津彦という大物が登場します。この人名に熊襲の「襲」という文字が入っていることにご注意ください。
以前お話したことの繰り返しになりますが、古事記という書物は史実を正確に記述しているとは言い難い内容で書かれていますが、まったくのデタラメが書かれているわけでもなく、そのひとつひとつのエピソードを念入りに読んで行くと、「真の歴史とはこうだったのではないか?」と思えてくるような細工が仕掛けられています。
古事記の神武東征譚に、神武軍の兵士が久米歌(熊襲族の歌)を歌うくだりがあったり、神武軍の出発地が高千穂である等の記述は、天孫ニニギの縁組先が熊襲族であったりすることは、ヤマトの地に熊襲族の人々が進出したことを暗示しているのかもしれません。
九州の吉野ケ里に定住した徐福の一族は、やがて南方にいた熊襲族と連合し、ヤマトを目指したのかもしれません。
(下は出雲王家の口伝による系図。彦火明が徐福とされています)。
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