スサノオの足跡㉙ スサノオ=徐福説のカラクリ その2
出雲王家の伝承では徐福の行跡は詳しく語られていますが、スサノオについては記述がありません。そして、「スサノオとは徐福のことだ」と書かれています。
しかしながら、これは他の古志古伝の記述とは一致しません。スサノオという存在は日本古代史の中でも最重要と言っても過言ではないくらい重要で、スサノオの行跡が書かれていない古志古伝はないと言って良いくらいで、たとえば、ウエツフミのような謎に満ちた古文書でさえ、最初に語られるのはスサノオの物語なのです。
しかも、スサノオのエピソードは単なる神話に留まらず、人間が行ったとしか考えられない泥臭く生々しい逸話が多く、時にはかなりな悪行を平気で行っており、そういう点ではスサノオというのは実在した人間であった可能性がかなり高いと思われるのです。
出雲伝承の中にスサノオに関わる逸話が一言も入っておらず、それなのにほかの古文書にはたいてい出てくる、ということは、出雲の伝承者が意図的にスサノオの存在を隠したのではないか?とも考えられるのです。
一方で、出雲王家は古事記の編纂者に頼んで、徐福の名前を古事記から外すように工作しています。これは何を意味するのでしょうか?
つまり、出雲伝承においてはスサノオを隠し、そのかわり徐福の行跡が詳しく語られ、古事記(日本書紀も同様)においては徐福が隠され、スサノオの行跡が詳しく語られているのです。なぜこんなことをしなければならなかったのでしょう?・・・。
スサノオにしろ徐福にしろ、実在した人物であることは間違いないはずです。
出雲王家が徐福の名前を歴史から消したがったのは、徐福に出雲国王と副王を殺されたという苦々しい過去があり、そのことを思い出さないように、という理由からだと斉木雲州氏の本には書かれています。
しかし、私には、「隠されたもうひとつの目的」があったのではないかと思えるのです。
それは「徐福とスサノオをすり替え、スサノオを出雲の歴史から抹消する」ということです。
徐福とスサノオを同一人物であるということにして、出雲の歴史からスサノオを消したかった・・・。出雲王家はなんらかの理由で、スサノオを自国の歴史から消したかったのではないか?・・・。そんな気がするのです。
ここで、スサノオという人物の来歴をなぞってみましょう。
スサノオの名前は古代中央アジアにあったエラム王国の首都「スサ」の王の名前から来ているという説があり、中東にあった「牛頭大王」やイスラエル10支族の伝説とも関連が見られます。
その足跡はインド、中国にもおよび、そこから中国東北部、朝鮮半島にまで辿ることができます。
記紀においてスサノオの存在が規定されるのは「高天原」という場所ですが、ここがどこだったかという説は多々あれ、その地から「新羅のソシモリ」に移ったという記述が日本書紀において、「一書に曰く」という但し書きで書かれています。
この記述を信じるならば、スサノオは日本にやってくる直前には朝鮮半島の新羅国にいて、そこから日本に向かったことになります。
スサノオの日本での上陸地にはいくつかの説がありますが、最も有力と思われるのは日本書紀に「出雲国の簸の川の上流」および「安芸国の江の川のほとり」と書かれている部分で、地図で確認しますと、これらは同じ、現在の島根県と広島県の境あたりの山中を指しているようです。
ただ、海からやってきたにしては、これらの最初の停泊地が海から遠く離れているのが不可解です。
記紀によりますと、その後、スサノオは出雲の八上王国に行き、そこで八岐大蛇を退治、八上王の娘を娶ってめでたく出雲王の後継ぎとなるわけですが、この八上という土地は現在の鳥取市あたりであったらしく、現在の出雲市とは100キロあまり離れています。
これを出雲王家に伝わる徐福の伝承と比較してみましょう。徐福の出雲渡来時の停泊地は五十猛の浜と伝わり、そこは現在の島根県大田市で、同じ出雲国の版図の中ではありますが、日本書紀におけるスサノオの上陸地・鳥取市とはかなり離れています。
また、出雲口伝によりますと、徐福が娶ったのは同じ出雲王家の娘ですが、出雲にあった総本家富家ではなく、富家から分かれた郷戸家郷戸家の姫君でした。
富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」では、ある時代から出雲は二王制となり、富家と郷戸家が交代で統治したと書かれています。
そして、同書に記された出雲王国主系図の初代・菅乃八耳王の妃に「稲田姫」の名前が見えます。
記紀に記されたスサノオの妻の名が「櫛稲田姫」であったことを考慮しますと、この「菅乃八耳王」がスサノオであったことになります。もっとも、記紀に書かれたことには改ざんが多すぎて、この記述も到底素直に信じる気にはなれませんが・・・。
ただ、「菅乃八耳(スガノヤツミミ)」という名称には、スサノオのスサの転訛と思える「スガ」という文字が入っていることから、一応このお方が日本におけるスサノオの第一候補と言っても良いかもしれません。
そして、同書には、徐福が嫁にもらった姫は郷戸家の第八代八千矛王の娘・高照姫であると書かれています。つまり、徐福はスサノオから数えて八代目の子孫と縁組したことになり、ここで徐福とスサノオの関係がはっきりしてきます。
やはり、スサノオと徐福は別人であり、エピソードがよく似ていたことからしばしば混同して語られたのでしょう。出雲口伝ではスサノオを隠し、徐福の行跡として二人のエピソードが一緒にされ、記紀が編纂されるときは出雲王家の要請によって徐福の名前が隠され、徐福の行跡もスサノオのエピソードとして書かれたのではないかと私は推測します。
では、記紀に記された物語の中で、どれがスサノオで、どれが徐福の行跡かと言いますと、どうやら徐福の悪行をスサノオに擦り付けたと思えるエピソードがあります。
そのエピソードこそ、「八岐大蛇退治」なのです。
(この稿続く)。
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