スサノオの足跡㉘ 徐福=スサノオ説のカラクリ
大元出版の本に「出雲王家の口伝」として書かれた物語では、スサノオとは徐福のことだと書かれています。
私はこの部分だけがどうしても腑に落ちません。他の古史古伝に書かれているスサノオの物語とはあまりにも隔たりがありすぎるからです。
それで、大元出版の本の記述を追いかけてゆくと、どうやらこれが作為のもとに行われた「歴史の書き換え」であるらしいことがわかる記述を見つけました。
その記述とは、
「・・・ホヒ家の果安は、徐福の名前を記紀に使わないように、忌部子人に頼んだ。
なぜならば、徐福の名前を聞くと、徐福が出雲で行った悪事を、出雲人が思い出すからだった。果安は徐福をスサノオの名に変えて、記紀に書くことを子人に求めた。記紀の記事決定の中心は、官史編集の経験の長い忌部子人だった。」
(「古事記の編集室」斉木雲州著 大元出版 2011年)
この本の他の部分で斉木氏は「スサノオは徐福の和名だ」と書いている部分もあり、いかさか矛盾があるのですが、これはおそらく、次のような理由によるものでしょう。
① 出雲の口伝による伝承を正確に伝えた場合、スサノオとは徐福のことである、と伝えられている。
② しかし、同時に、記紀編纂時に徐福の存在を隠すような工作が行われたことも伝えられている。それが上記の引用部分である。
① ②を合わせて勘案すると、スサノオの伝説はもともと徐福とは別に存在していたが、記紀の編纂においては徐福の存在を隠すため、来歴が似ているスサノオの行状と一緒にして、すべてスサノオの仕業として描かれた。
徐福とスサノオはともに大陸からやってきて、粗暴なふるまいをして問題を起こしたという点で共通項があります。このため、徐福を隠すためのダミーとして、スサノオはうってつけの存在だったわけです。
私は前回の投稿で、記紀に徐福の記述がない原因は、中国出身の徐福が天皇家の祖先であるのは時の政権にとって都合が悪かったため、と書きました。が、それ以外にもこういう理由があって、徐福の名前は記紀から消されたのでした。
大元出版の本によりますと、徐福は出雲上陸後、出雲国王の娘を娶って出雲王家と縁組したにもかかわらず、国王と副王を拉致して幽閉し、殺してしまうという悪事を働いています。
これが日本以外の国で起こったことなら、徐福はたちまち一族皆殺しの報復を受け、その家系は滅んでいたことでしょう。しかし、驚くべきことに出雲王家では徐福の家族や縁者には罪を問わず、そのまま出雲に居住することを許したばかりか、徐福の部下全員、国王や副王を手にかけた実行犯までも無罪とし、それまで通りの生活をさせているのです。
このことは、私たち日本人の祖先がどれほど心優しく、「罪を憎んで人を憎まず」という精神を体現していた高貴な人々であったかということを示すもので、世界を見回してもほとんど類がない行動です。
そして、出雲口伝によりますと、このとき許された徐福の第一の部下、ホヒという人物の家系からは、武御雷命、賀茂武津乃身、大田タネヒコ、モモソ姫、開化大王など、日本古代史を彩る錚々たる大物たちが輩出しているのです(図をご参照ください)。
これらの人物がことごとく記紀において詳しく描かれ、それぞれが壮大な物語を演じていることにご注目ください。しかしながらその役割や血縁関係、時系列等は大きく書き換えらえれ、実際の歴史とはまるで違う物語が語られていることも・・・。
どうやら記紀の作者は、史実とはまるで違うフィクションを描きながらも、出雲王家が日本古代史の中心的存在であったことを、出雲の人名を散りばめることで暗示しているように見受けられます。
これはホヒの一族に限らず、徐福の後裔においても同じことが言えます。
出雲伝承では、徐福の子孫は出雲国と佐賀に残り、それぞれ勢力を拡大して版図を広げ、その後、物部東征として、徐福の子孫同士がヤマトで戦う、という歴史が語られています。
これは、歴史物語として見たときには、救われない歴史であり、見ていて楽しいものではありません。そのため記紀における神武東征譚では、善悪がはっきりした、胸のすくような英雄譚として物語が綴られていますが、現実はさにあらず。真実の歴史は人間の悪い部分もすべて反映しており、人間の作る業と因縁というものを感じさせずにはいられないものでした。
仮に出雲の人々がホヒを許さず、ホヒの家族までも皆殺しにしていたと仮定しますと、その後の日本の歴史はまったく違うものになっていたはずで、この「罪を犯した者でも殺さない」という日本独自の慣習は、その後の日本の歴史にも大きく作用して行きます。
たとえば徐福の場合、王殺しがばれていったん中国に逃げ帰りますが、その後、「饒速日」と名前を変えて佐賀に上陸し、再び日本での生活を始めます。
出雲の人々は徐福が再来したのを知っていたはずですが、徐福を攻めることなく、徐福の住んでいた吉野ケ里とも交易を行ったようです。吉野ケ里に近い安永田遺跡からは銅鐸工房の遺構が発見されており、徐福の吉野ケ里王国と出雲の人々が交易を行っていたことがわかります。
そして、徐福自身も、吉野ケ里に住み着いてからは二度と人を殺めたり、武力で持って他国を攻めたり、ということを行わなかったようです。
徐福の渡来伝説は出雲や佐賀に限らず日本中にありますが、どこの地でも徐福は偉大な祖先として神のように崇められ、徐福を祀る神社や墓までもが作られ、現代までそれが守られていることは、徐福がその地の人々の生活に多大なる貢献をしたことを示しています。
もとより、徐福は中国を平定した始皇帝の部下だったのですから、始皇帝が何十万という人々を殺戮するのを見ていたでしょうから、日本に来た当初は殺人をなんとも思わなかったとしても無理はありません。そして、そういう徐福を改心させて徳の高い人物に高めていることに、私は日本人として、日本社会に生まれてきたことのありがたさを思わずにいられません。
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