スサノオの足跡⑰ 大元出版の本に書かれていないこと
大元出版から刊行されている数冊の本は、古代史を学ぶためには必須の教科書とも言えるもので、古事記や日本書紀に書かれた歴史とは全く違う、出雲国を中心とした古代日本の姿が驚くほど具体的に、かつ綿密に記載されています。
大元出版の本のどれか一冊でも読んでみたならば、これまで日本史の教科書に載っていた古代日本の歴史というものがどれほど曲解されていて、どれほど間違いが多いものであるかということがわかります。我が国の歴史を正しく理解するためには、まず、記紀ではなく大元出版の本を読むべきです。
・・・しかしながら、私にはこの大元出版の出版物でさえ、触れていない「秘密の歴史」があるように思えてなりません。いくつか、読んでいて不思議に思うことがあるのです。
大元出版の本は、おおむね出雲国の歴史を中心に書かれています。そのため、その他の地域の歴史に関する記述が少なくなるのは自然なことなのですが、それにしても気になるのは、出雲国のすぐ近くにあった奴国や伊都国などについての記述が少ないのです。それらの国名が出てくることもほとんどなく、ただ「九州の宗像家」とは縁組していた、という記述があるだけです。
また、朝鮮半島からの渡来者に関する記述も、天日矛やツヌガアラシトについては説明があっても、金官伽耶国からの渡来者や高句麗からの渡来者に関する記述がありません。
このことはなにかを意味しているのではないか、と、私には思えるのです。
出雲国の墓制を見てみますと、四方突出型方形墓という特殊な墓制が見られます。
この墓制を大元出版の本では「出雲王家の伝統的墓制」と説明していますが、その墓制がどこから渡来したものであるかという説明はありません。
方墳という墓制は世界に広く見られるため、方墳であるというだけではその出自を突き止めることができません。大元出版の本では、出雲王家のルーツはインドにあると書かれていますので、墓制のルーツもインダス文明あたりに求められるのかもしれませんが、四方突出型方形墓という形は、高句麗の墳墓形態と酷似しているのです。
以前、「布都御魂」という剣のルーツを探ったとき、それが高句麗の東明聖王・朱蒙まで遡れることがわかりました。スサノオや物部氏の一族は中国から高句麗に入り、金官伽耶国を経て出雲に上陸したと思われるのですが、大元出版の本にはその記述がありません。
大元出版の本には、スサノオは徐福のことであり、物部氏は九州から畿内へ侵攻したと書かれています。
しかしながらスサノオの行跡は徐福のそれと完全に一致するわけではありません。スサノオの行跡のほうが広く、深いのです。これをすべて徐福と規定する大元出版の説明にはどこか、無理を感じます。
かと言って、大元出版の本がウソを書いているとも思えません。それらは出雲王家に代々伝わっていた伝承を記録したものであり、口頭による伝承で伝えられてきたものだけに、重要でない史実は省略されたり、人間の記憶違いによる誤った伝えられ方をした可能性もあるかもしれません。
出雲国が成立した紀元前3~4世紀頃の墳墓から、すでにペルシャかインド製と思われるガラス玉が出土しています。また、姫島産黒曜石や糸魚川産の翡翠などの流通範囲は半径千キロを優に超えていますので、この時代から広範な範囲で交易が行われていたことは明らかです。出雲国も奴国や伊都国、大分にあった豊国などと交易があったに違いなく、豊国のことはかなり多く触れられているのですが、奴国と伊都国に関する記述が薄いのはなぜなのでしょうか?
ひるがえって伊都国の墓制を見ますと、支石墓や円墳など、朝鮮半島との結びつきを強く感じさせる墓制が多いものの、その形態は10種類くらいあり、古代伊都国が驚くべき国際都市であり、さまざまな人種の民族が隣接して居住していた国家であったことがわかります。
そして、奴国の墓制は甕棺墓。これは徐福のいた中国の斉という国の墓制と同じです。
このあたりから少し匂ってくるのですが、徐福は出雲国に渡来した際、出雲国王と副王を殺すという大罪を犯して出雲を追われています。その後徐福は吉野ケ里に上陸、これが奴国のもとになったと考えれば、出雲国と奴国が犬猿の仲であったことは察しがつきます。
そして、出雲国と奴国の喧騒を避けるように、金官伽耶国から天孫ニニギが伊都国に上陸します。ニニギは伊都国から熊襲国へ足を延ばし、熊襲王の娘・コノハナノサクヤヒメと結婚するのですが、考えようによっては、ニニギは交戦状態にあった奴国と出雲国を避け、渡来人に寛容であった伊都国に入り、伊都国や熊襲国と同盟関係を築くことによって日本列島内での勢力拡大を図ったのではないか?とも思えてきます。
ニニギから数代後、子孫の五瀬命は北九州一円の王となり、東征を開始します。記紀の「神武東征」はこの五瀬命の東征譚をベースに書かれているようですが、大元出版の本ではこれを「物部五瀬の東征」と表現しており、五瀬命は物部氏の一族であるということになっています。
このとき、畿内にはすでに出雲族の王権が確立しておりました。畿内にあった三輪王朝、磯城王朝、葛城王朝はいずれも出雲系の王朝のようで、この中に物部系の五瀬命が攻め込んだ、ということになります。・・・ということは、この戦いは徐福が出雲に渡来した際の紛争を引きずっていて、子孫同士が数百年後に再び代理戦争を始めたもの、と言えるかもしれません。
ただ、どうしてもわからないことがあります。記紀の記述や出雲・高句麗の墳墓形態を見る限り、スサノオ族は物部氏とともに出雲に渡来し、出雲族と婚姻関係を結んでいるはずなのです。スサノオ=徐福だったとしたら、五瀬命東征時の畿内には徐福の子孫もいたはずで、スサノオはアマテラスとも婚姻していることから、天孫族=五瀬命とも親族関係だったはずです。
古代には氏族同士の政略結婚が常態でありましたので、時代が下がるほどに多くの民族が複雑な血縁関係を持つようになりました。五瀬命にはすでに天孫族、熊襲族、ウガヤ族(豊国の月信仰族)等の血が入っておりますし、その頃の畿内には出雲族や徐福の子孫の血が入っておりましたので、その後の大王家にはそれらすべての氏族の血脈が入っていた可能性があります。
私にはどうしても、徐福ではないもう一人のスサノオがいて、その人物が高句麗からやってきて出雲王家と婚姻を結んだ、と思えるのです。このスサノオこそ物部氏であり、五瀬命らの天孫族とは同盟関係にあった別種族であり、出雲王家と婚姻関係を築きながらも最後には出雲族と敵対して滅ぼしてしまう、という悲劇の歴史が隠されているような気がしてなりません。
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